雑記日記

概ね無職。

『大怪獣のあとしまつ』は本当に"クソ映画"か

正直は美徳であるとされている。

別に私だって普段から誰かを欺こうとして生きているわけではない。限りなく嘘に近い話が、立て板に水を掛けるように口を飛び出すだけである。

それは合理的な理由なしには一切の自由が禁じられた、まるでブラック・ドルフィン刑務所のようなご家庭に育ってしまった弊害であるからして、私だけの責任を問うのは筋違いというものだ。嘘をつかねば生きられなかったのである。

そういう育ちであるから、逆説的に私は殊更に正直であろうとしている。"言わない自由"を行使しているだけで。

例えば小学生の頃、普段は臆病で引っ込み思案だった私が、2年上級で粗暴だったO君と取っ組み合いの喧嘩になったのは、実は公園のフェンスに戯れに結ばれていた、週刊誌のヌードグラビアページの所有権争いに端を発している。

専門学校に通っていた頃、同級のT君が鏡面に磨き上げたギターの塗装面にうっかりアロンアルファを垂らし、イチから磨き直しにさせたのは、実は私である。

とまあこのように黙して語らぬことは山ほどあるのだが、促されれば話しもするし、反省もしているし、後悔もしている。O君、T君、あの時はすまなかった。

正直になるついでにこれも書き添えておくと、今回この記事の書き出しをどうするかひどく悩んだ。正直になるのにも理由がいるというもので、この場で懺悔をしたのはその前フリである。

 

正直な話をしよう。私は"特撮"の素養がない。

ここで言う"特撮"とは、狭義の特撮のことであって、所謂怪獣ものや戦隊もの、ライダーもののことである。

おそらく大半の日本人がそうであるように、ごく幼少の頃に1年か2年、日曜の朝の番組を飛び飛びに観て、それをモチーフにしたおもちゃを1つか2つ買ってもらった、その程度の馴染みしかない。当時ウルトラマンは冬の時代だったのか、私は放映時間すら知らなかった。

怪獣もので言えば、ゴジラは初代、つまり『ゴジラ』(1954年/東宝)を、遠い昔にテレビ映画だったかVHSだったかでなんとなく観ただけであり、ガメラは『ガメラ3 邪神覚醒』(1999年/大映)において、当時駆け出しだった仲間由紀恵がミイラになるシーンしか観たことがない。

その他の怪獣映画となると、これはもうほぼ分からない。モスラは昔ラーメンズがネタにしたから知っている程度、キングギドラと言えばラップグループだ。

私にとって円谷英二という人は『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年/東宝)の特撮担当の人であり、それ以上ではないのである。

このあたりの映画のフォロワーとされる映画達のことも、実際よく分かっていない。例えば『パシフィック・リム』(2013年/Legendary Pictures)はTV放映されたものを、高い前評判から割と期待して観たのだが、何が面白いのか一切――本当に一切――分からなかった。

シン・ゴジラ』(2016年/東宝)に至っては、監督が私の嫌いな人物であるので、双方の幸せのために、ネタバレと種々の考察を読んだだけで未見である。公開当時あれほどのムーブメントになり、後年地上波で放映された際もかなり話題になったのにも関わらず、である。

 

さて、ここまで長々と前置きしたのは、私がどれほど特撮の"お約束"や"セオリー"といったものに疎いのかを、読者諸兄に少しでも理解して頂きたかったからだ。インターネットに長く浸っているとつい忘れてしまうと思うが、特撮が全く分からないオタクというものは存在するのである。

ちなみにドラゴンクエストファイナルファンタジーポケットモンスターモンスターハンターなどのゲームを殆ど、あるいは全くプレイしたことがないオタクというのも存在する。勿論、他でもない私のことである。

 

この度、ある映画が話題になっていた。『大怪獣のあとしまつ』(2022年/松竹・東映)である。

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人類を未曽有の恐怖に陥れた大怪獣が、ある日突然、死んだ。
国民は歓喜に沸き、政府は怪獣の死体に「希望」と名付けるなど国全体が安堵に浸る一方で、河川の上に横たわる巨大な死体は腐敗による体温上昇で徐々に膨張が進み、ガス爆発の危機が迫っていることが判明。

大怪獣の死体が爆発し、漏れ出したガスによって周囲が汚染される事態になれば国民は混乱し、国家崩壊にもつながりかねない。終焉へのカウントダウンは始まった。
しかし、首相や大臣らは「大怪獣の死体処理」という
前代未聞の難問を前に、不毛な議論を重ね右往左往を繰り返すばかり・・・。

絶望的な時間との闘いの中、国民の運命を懸けて死体処理という極秘ミッションを任されたのは、
数年前に突然姿を消した過去をもつ首相直轄組織・特務隊の隊員である帯刀アラタだった。そして、この死体処理ミッションには環境大臣の秘書官として、アラタの元恋人である雨音ユキノ(土屋太鳳)も関わっていた。

果たして、アラタは爆発を阻止し、大怪獣の死体をあとしまつできるのか!?
そして彼に託された本当の〈使命〉とは一体―!?

引用元:映画『大怪獣のあとしまつ』公式サイト

 

読者諸兄は勿論存じていると思うが、第一報は悪評の嵐である。

しかしながら私は、どのレビューも"特撮マニア"の視点で語られており、判で押したように『シン・ゴジラ』と比較をするのが引っかかっていた。

私はオタクという括りに押し込められるべき存在でありながら、意外にもオタクのことをやや嫌悪している上、生まれ持っての反体制であるので、分際を弁えない行いだとは思いつつも「特撮マニアじゃないこの俺が判断してやろうじゃねえの、あぁん」と息巻きながら、映画館に足を向けたのであった。

以下の文は、ネタバレを多分に含む私の感想文である。著名人の敬称は省略した。全体で8400字以上ある冗長記事なので、目次をつけておく。

 

はじめに

本作は全く特撮マニア向けの映画ではない。むしろその逆で、特撮マニアを徹底的におちょくった映画である。ひいては特撮マニアの主戦場である、インターネットの中の風潮というものもおちょくっている。そら"トクサツさん"は怒るよなあ。面罵されてるようなもんだもの。

そのことに気付いてからの鑑賞はなかなか興味深く、「なるほどな~」と膝を打ちながら観られたので、この映画は世間で言われているほど"クソ映画"ではない、と思う。

 

内容について

まず冒頭。

何故かは分からないものの、まばゆい光によって怪獣が斃れ、ひとまず安堵に包まれた世界。いつまで続くか分からなかった暗いトンネルを、全く前触れなく抜けてしまった驚き、肩透かし感、そういった感情が、誰も表出しないものの、民衆の心の底に重たく横たわっている――という、「その後の世界」を描き出すことに極めて高いレベルで成功しているのは、単純に賞賛に値すると思う。ここの描写はかなり真に迫っており、これには特撮マニアもさぞやニッコリしたことだろう。

しかしながら、話はすぐに雨音ユキノ(土屋太鳳)と帯刀アラタ(山田涼介)のメロドラマに転落してしまう。

ここで哀れな特撮マニア達は気付くべきだったのだ、この映画が目指しているのはブラックコメディであり、彼らに与えられるべきお子様ランチなどではないということに。彼らこそが、この映画で笑われるべき存在であったということに。

 

中盤は、首相(西田敏行)以下、内閣が繰り広げる政治劇である。

環境相ふせえり)が白いスーツをバシッと決め、携帯を手放さないおばさまだったり、財務相笹野高史)が中折れ帽とトレンチコートのがらっぱちだったりと、あまりにも元ネタがあからさまなキャラクター設定がなされている他、そろばん尽くの外務相嶋田久作)や立つ瀬のなさそうな文科相矢柴俊博)など、ステレオタイプな官僚達が目白押しだ。そんな我の強さと責任逃れだけの集団だから、無論会議は踊って踊って踊りまくる。

このパロディ劇が何を暗示するかといえば、言うまでもなく『シン・ゴジラ』だろう。前述の通り私は未見ではあるが、同作の政治劇が特撮マニア達に高く評価されていたことは記憶に新しい。確か一部では「無能がいない」と評価されていたことも記憶している。それを正面切っておちょくっているのである。何しろ官僚達は揃いも揃って無能ばかりだからだ。

尤も、私は最初、それだけのための政治劇パートだと思っていた。ジョークとしての「怪獣の起源を主張したり、そうかと思えば掌を返して汚染被害を懸念したりする隣国の存在」や「何はともあれ(現場の業務を圧迫しても)現地に訪れようとする官僚」、「安全宣言の直前に判明する腐敗ガス噴出の虞」といった描写から、ついでとして東日本大震災に於ける民主党政権の失策を嘲笑っているのだと思った。

しかし、以上のような妙に露骨な右派的アティテュードが散見される一方で、右派の官僚をモデルにしたと思しき描写やキャラクターを、これも手厳しいジョークとしてちりばめてあるのは何故だろう?と考えると、このコメディ的政治劇全体が、所謂「インターネットの総意」のカリカチュアではないかという推測に行き当たった(ここでは特に民主党政権以降のネット上で、右派が自称したアティテュードのことを指している。残念ながら、彼らはネット上においては未だに多数派であることも書き添えておく。念のため)

すると、全ての(時折悪意的な)描写は、実に尤もらしく「『インターネットの総意』達が考えた無能」として立ち上がってくるのである。

 

政治劇以外の部分についても触れてみよう。

環境相秘書官のユキノと特務隊一尉のアラタは元恋人であり、アラタの2年間の失踪を経て、ユキノの現在の配偶者はこれも特務隊OBで総理秘書官の雨音正彦(濱田岳)である。しかしながら、冒頭シーンの解説でも述べた通り、ユキノはアラタに対する思いを諦めきれていない。あけすけに口づけを交わし、「なんでこんな人が好きなんだろう」とまで言い出す始末である。

雨音が嫉妬に狂うのも当然というもので、首相の腹心まで上り詰めた今、その権力を振りかざしアラタ(ないし、特務隊)に嫌がらせのような妨害をかける。そうかと思えば実は雨音は防疫対策室のような部署の研究員(どうやらユキノと懇意のようである)と通じており、ユキノが内密に要求していた資料を予め改竄させたりもしている。

早い話が、ダブル不倫でズブズブなのである。

ことオタクと言われるジャンルの人々は不倫にうるさい。作劇上嫌われる要素のひとつである。それをわざわざ脚本に突っ込んできたということは、そこに何かしらの意図があるのは明白である。ここを留意しておいてもらいたい。

 

さて、怪獣の死骸は非常に巨大な上、腐敗ガスが蓄積していて爆発の危険があったり、体液に未知の真菌が含まれていることが分かったりなどしていて、その処理は一筋縄ではいかない。

この死骸の処理方法について、自衛隊の後継組織・国防軍と首相直轄の組織・特務隊は敵対的である。この辺りも縦割り行政と、それに伴う弊害を無視する民衆達のカリカチュアであろうが、国防軍側の無能な"専門家"を演じるのがなんと菊地凛子なので、私は声を出して笑ってしまった。言うまでもなく『パシフィック・リム』のキャスティングが頭にあったことであろう。

無能な専門家が出した「死骸を凍結させる」という案はあっという間に瓦解、菊地凛子も早々にご退場と相成るので、菊地凛子に無能の役をやって貰いたかったからキャスティングしたと言っても過言ではないと思う。

……ブラックジョークもここまで来てしまうと、もはや悪意である。この時点でもまだ「ああ、我々が笑われているのだ」と気付けなければ、特撮マニアの人々も逆に幸せと呼べるだろう。

 

対する特務隊は死骸が横たわる川の上流にある廃ダムを決壊させ、水流で海まで押し流す作戦に出る。そのために特務隊OBの爆破のスペシャリストでユキノの兄・青島(オダギリジョー)を呼び寄せて作戦を決行する訳だが、ここのくだりは冒頭に次いでかなり真面目に描写され、オダギリジョーの快演もあって緊張感のあるシーンに仕上がっている。

(おそらく雨音によって)ダムの図面が予め改竄されていたために堤体を爆破しきれず、小型艇で青島が決死の発破に向かうシーンは感動すら覚える……のだが、せっかく押し寄せた鉄砲水も、怪獣の口が上流に向いていたために身体の中を通り、尻からシャワーになって噴き出してしまう。それに虹が架かるんだから、これはかなり痛烈な皮肉である。

ちなみに、その時点で怪獣の体内に蓄積していた腐敗ガスは結局屁として放出されてしまう。つまり、特務隊の努力は問題の先延ばしにしかならなかったわけで、青島は無駄死に(実際には意識不明であり死んだわけではない)したのであった。痛烈である。痛烈すぎるくらいに痛烈である。

 

最終的には焼肉用換気扇を作る町工場の社長(松重豊)が特務隊に持ち込んできたガスの処理案を試すしかなくなるのだが、ガス嚢に正しく穴を開けねばならないため慎重な作業が求められた。度重なる失敗により業腹の首相は国防軍の小型ミサイルでのガス嚢の処理を命じ、その指揮は雨音が執ることになる。

しかし決行の直前、怪獣の体液を浴びてしまったYouTuber(染谷将太)の全身からキノコが生えてきたことがユキノによってリークされていた。これはユキノがアラタのためにした時間稼ぎであった。青島はダム決壊作戦が失敗に終わった時のことを考えて、既にプランB、つまりガス抜き用のピンランチャーを用意し、アラタに託していたのである。

アラタはなんとか全てのピンを刺し終え、ガスを成層圏まで噴出させることに成功するが、雨音によって発射の命令が下された国防軍のミサイルが着弾したことによって、河川敷まで吹き飛ばされてしまう。駆け寄ろうとするユキノを片手で制し、アラタはついに正体を現す。スマートフォン(どこからどう見てもスマートフォンなのだ、これが)を高々と掲げ、アラタは光の戦士的なものに変身し、まばゆい光とともに怪獣の死体を宇宙へと押し出していくのだった。完。

ラストシーンに関しては比較的(落とし所を弁えていたという意味で)よく出来ていたと思うので、私の考察や解説は控える。

 

問題点

この映画の一番の問題は、「誰に向けられた映画なのか?」という点にある。

少なくとも特撮マニアに向けられたものではないことは、数々の描写やキャスティング、あまりに陳腐でありきたりな展開からも読み取れる。

この映画には、(特撮マニアの人々が期待したであろう)目新しい展開というものは殆ど存在しない。馬鹿馬鹿しく下品な政治劇パートや、前述の悪意すら感じる菊地凛子のキャスティングを除けば、全編を通じて「こんなもんでしょ」感が溢れているのである。特撮マニアではない私ですら感じるのだから、この陳腐さは相当なものだと思う。

 

推測

それではこの映画は誰に向けられているのか?

私が思うに、これは「特撮に馴染みがなく、別に好きでもない人達」に向けられた映画である。ちょうど私のような存在だ。

特撮マニアの人々に言わせると、この10年間は、怪獣特撮映画が洋の東西を問わず盛り上がった期間だったらしい。思い返せば、話題作と言えば半分くらいは怪獣映画だったような気がする。

そういう時流の中にあって、特撮好き"ではない"我々が「どのように世論を眺めていたか」が、この映画にはほぼ正しく描写されていると言っても良い。

 

まず俎上に載せたいのは、近頃の価値観の多様化により殊更持て囃されるようになった「恋愛描写不要論」である。これは『パシフィック・リム』以降特に強く言われていたと思う。

私は映画に恋愛描写が必須だとは断じて思っていないが、かといって不要だとも全く思っていないので、この辺りのラジカルな主張には冷めた視線を持っていた。

本作では前述の通り、それを嘲笑うかのように主人公3人は見事なまでの三角関係であり、もはや不倫も内包するドロドロの恋愛描写で描かれる。これはやはり、過激な「恋愛描写不要論」に対するカウンター(あるいは、気に入らなければ「当て擦り」と表現してもよい)であると思われる。

 

次は『シン・ゴジラ』以降俄に言われ出した「徹底したリアリズム」である。

リアリズムを標榜し、映画賞などを受賞する監督がいる以上、私もこれが悪いことだとは思わないが、そもそも怪獣映画や特撮ヒーローものなどは「些細な真実を屋台骨として組んだ大きな嘘を補強するために、小さな嘘をつき続ける」映像作品なのではないだろうか。その傾向を内包しているが故に、屋台骨たり得る"真実"に社会通念とか道徳といったものを据えざるを得ず、そのため勧善懲悪のマンネリズムに陥り先細りしたのではないか。もしくは、端から屋台骨を持たず、パニック映画に仕立てるより他になかったのではないか。

その現状を憂い、リアリズムを標榜した怪獣映画が出てくることには、おおよそ異論はない。しかしそれは全ての映画・ドラマに適用されるべき万能論であってはならないと思う。

そういう意味で本作はリアリズムを冒頭のつかみにのみ利用し、あとはおおかたハチャメチャにしてしまっている。こんなステレオタイプの官僚など存在しないし、未知の生命体(しかも死骸なのだ)に皮膚や呼吸器が曝露された格好で近づく"専門部隊"なども存在しない。

しかし、映画などそれでいいのだと思う。我々が生きているのは、怪獣もスーパーヒーローも存在しない世界なのだから。

 

最後に取り上げるのは、「インターネットが作り上げる"世論"」である。

思えば我々はインターネットの"世論"に散々踊らされてきた。何かしら人々の耳目を集める事件や事故、災害が起こる度、インターネットには怪しげな情報とデマゴギー、果ては陰謀論までが渦巻いてきた。この映画で殊更露悪的で無能として描かれる官僚達は、前述のように「『インターネットの総意』が考える無能」であると見るのが妥当だろう。

実際の為政者達は、ネット上の世論など歯牙にもかけない。インターネットの力で内閣が倒れることなど、(悲しいかな)この国においては起こりえないのだ。しかしながら、本作の官僚達はマスコミの追及よりインターネットの世論を気にしてビクビクしている。

この構造がある以上、この「『インターネットの総意』達が考える、無能な官僚ども」は、逆説的にそれを生み出した「インターネットの総意」そのものを嘲笑うものだと見なした方が良いだろう。

 

脚本の流れに関しても、青島の奮闘や、棒読みスナイパーちゃんこと椚(SUMIRE)によるアラタの援護などの、普通の映画であれば山場であるとされる場面に痛烈なオチが用意されているので、それらのシーンを「面白い」「胸が熱くなる」と感じた我々の感性ごと、陳腐なものに過ぎないのだと嘲笑われる構造が実現しているのである。

 

総括

つまりこの映画は全編を通じて、まるで鏡のように観る者を嘲笑う構造になっているわけだ。この構造に気付いてしまうと、初週の散々な悪評の嵐も想定の範囲内だったのではないかとすら思えてくる。

また、自業自得とはいえ、合意なきまま誘導路をまんまと歩かされ、いつの間にか俎上に載せられてしまった特撮マニアが怒るのは当然だとも思う。誰だって面罵されるのは不愉快なものだ。それについて、かわいそうな特撮マニア達を責めることは出来ない。

しかし残念ながら「特撮マニア」が存在すれば「特撮マニア以外」も存在するのはこの世の理であって、更には「『特撮マニア以外』に向けられた特撮風映画」というものが存在してはいけない、という理由もないのであるし、本作に殊更怒って悪評を書き立てることは狭量であると言わざるを得ない。本作の「特撮マニア」に対する冷ややかな視線は、「特撮マニア以外」のそれと非常に似通っているのだから。

この映画は下品である。俗悪である。キッチュである。キャスティングには悪意がある。役者の演技力が空回りしている。伏線の張り方も上手くない。回想の挟み方も前後がぶつ切りであり、褒められた出来ではない。ジョークが面白いわけでもない。決して佳作ではない。特撮映画ですらない。

しかしながらまた、その構造の冷徹さゆえに、決してクソ映画だと斬って捨てることが出来ない仕上がりである。そういう意味で、本作はなかなかの怪作だと言えるのである。

 

おわりに

ここまで長々と書いてきたが、そもそもの話、この映画を特撮映画だ、と思って観てしまう人が現れうる宣伝手法が悪かったのではないか。こういうブラックコメディですよ、と最初から正直に標榜する広告であれば、(一部の狭量な)特撮マニアが大挙して訪れることも、激情に身を任せた悪評を書き立てられることもなかったのではないか。私にはそう思えてならない。

まこと、正直は美徳であるのだなあ。