雑記日記

概ね無職。

うどん屋と国際色とBMW

私はうどんを食べていた。

昼下がりから買い物に出て洗車まで済ませると流石に夕食の準備が面倒になって、家からは少し遠いものの、割と好んで訪れるうどん屋に今日も来ていたのである。

ここのうどんは所謂讃岐タイプに代表されるようなマッチョなうどんではなく、滑らかで柔らかく、長い。とにかく長いのである。おそらく1本が50cm以上ある。ざるうどんなどの「うどんを別添えのつけだれに浸して食べる」タイプのメニューを頼むと、腕をどこまで上げてもうどんが途切れず、地獄を見る。だから私は基本的に啜ればいいだけの温かいうどんばかり注文するのだが、それはそれで啜れども啜れども熱々のうどんが延々と続き、場合によっては別種の地獄である。

しかしながら市井のうどん屋としては比較的珍しいタイプのうどんが食べられるので、案外重宝している。それに、きょうび讃岐タイプのマッチョうどんはどこでも食べられるようになった。マッチョうどんもそれはそれでうまいが、私はどちらかと言えば柔らかいうどんのほうが好きなので、この店を好んでいるのである。

話を戻そう。私はうどんを食べていた。今日は何の気まぐれか、いつも頼むちゃんぽん風うどんではなく、辛ちゃんぽん風うどんを注文していた。

ふつう我々が想像するちゃんぽんと言えば、長崎のちゃんぽんであろう。野菜やかまぼこを鶏ガラスープや豚骨スープで炒め煮にしたあれである。あれは実際に長崎市内の中華料理店が発祥であるそうだから、所謂狭義の中華料理と言って差し支えないだろう。厳密には長崎市内の業者が製造する「唐灰汁」と呼ばれる独特のかん水(一般的なかん水よりも炭酸ナトリウムの割合が高いものらしい)を利用して製麺されたものが、長崎ちゃんぽんと呼称することを許されるそうである。

しかしながら、この店のちゃんぽん風うどんはおそらく和風出汁ベースの塩味スープで野菜と肉を煮込んであるもので、これがうどんとよく馴染みうまいのである。調べてみると、福岡や北九州などで「福岡ちゃんぽんうどん」と呼称しよく似た料理を提供する店があるようだ。その系譜なのかも知れない。

辛ちゃんぽん風うどんはそれに辛味を足したもので、割としっかり辛い。大衆店がレギュラーメニューとして出すにはギリギリの辛さだと思うが、これもうまい。

私がうどんに舌鼓を打っていると、隣のボックス席にいる家族連れの会話が耳に入ってきた。夫婦と姉弟に見える4人組だ。

盗み聞きなど悪いと思いつつ、私の耳は意識して声を聞き分けることが出来ない代わりに、意識して聞かないようにすることも出来ないので、なんとなく耳をそばだてつつうどんを啜っていた。

なぜ私の散漫な意識が隣の家族の会話に向いたかと言えば、それが中国語だったからである。私は浅学にして中国語を解する能力はないのであるが、何度聞いても日本語には聞こえず、抑揚や声調なども中国語に酷似していたので、おそらくではあるものの中国語だったと思う。厳密には違うのかも知れないが、とにかく日本語ではなかったのだ。ここでは中国語ということにしておいてもらいたい。

声の調子から察するに、その主は姉と思しき少女であった。父親と思しき男性と、息子と思しき少年は普通に日本語で話していたので、余計におや、と思ったのである。まあきょうび国際結婚など珍しくもないし、そのような家庭では両親とはそれぞれの母国の言語で会話する子供たちもいるという話は聞いたことがあるので、この家庭もそうなのだろうと思ったまでだった。

しかし、姉が話しているのはどう見聞きしても残った母親らしき女性なのだが、その母親は、その中国語に日本語で応答していたのである。適当を言っているようなそぶりもない。会話は十分に成立しているように聞こえた。

私は感動した。これはフィクションにおいて、設定上異邦人のはずのキャラクターとスッと話が通じる、あのシチュエーションを観察しているようなものではないか。

小説や漫画などでは、当たり前に存在するはずの言語の壁を殊更描写することは、それそのものに特別な意図がない限り面倒なことである。フィクションの中の登場人物達の間では会話が成立しているのだとすればいいが、それを読む読者の言語学への造詣までは作者も担保できない。もしポアロが突然本当にフランス語で話し始めたら、我々はもうお手上げである。第一、フランス語には例外が多すぎる。例外と辞書で引いたらフランス語が載っている。ナポレオンも不可能という言葉はフランス的でない、フランス的とはすなわち例外であると言っている。これは勿論嘘である。ポアロの口をつくフランス語は一言で、しかもルビに過ぎないのだからこそ、我々のつるつるプリンの如き安直なピンクの脳細胞はギリギリ理解できるのだ。

あるいは映画やアニメなどでは、異邦人はスッと日本語を喋り始めたり、吹き替えのように日本語がインサートで乗っかってきたりもする。その方が鑑賞者にも理解がしやすいからだが、しかし現実とは映画ではないので、普通2者が何か会話をしようとすれば、2人の間には共通した言語が交わされるものである。英語なら英語、日本語なら日本語というように。それぞれの母語以外に何か共通の言語があれば、それを用いることもあるだろう。しかしながら、その2者がそれぞれ別の言語を話しながら意思の疎通が図れているという構図は、実際に目の当たりにするとかなりシュールなものであった。

俗にバイリンガルと呼ばれるタイプの人々はこうやって会話することも可能なのだろうか。まあわざわざ違う言語を用いて話をするメリットはほぼゼロだろうから実際にはそういうシチュエーションは起こらないのだろうが、できることはできるのであろう。

2つ以上の言語を解し話すことができるというのはどういう感覚だろう。私は6年間学んだ英語を「そこそこ聞け、そこそこ読めるが、話せない」程度でしか理解していないため、残念ながらその境地には至ることができない。しかしながら空耳アワーが楽しめなくなるのは困るので、実際今くらいの理解でいいのかも知れない。

大体、こんにちの機械翻訳の質の向上も目覚ましいものがあるしな。困ったら機械に頼ればよいのだ。軽率に機械を過信して公衆便所にBMWで突っ込むのはドイツ人の悲しきサガだ。勿論私はドイツ人ではないが、ソーセージとじゃがいもとザワークラウトとビールが大好きなので、ドイツのことは好きだ。ドイツが好きな者であれば、やはりBMWで公衆便所に突っ込むところまでは様式美と言えるだろう。勿論そんなことはない。

私がそんなことを考えている間に、いつの間にか隣の家族は退店していた。家族の素性については、当たり前ながら全く分からなかった。まあ、うどん屋で隣に座っただけの客にあれこれ詮索されるのも心外であろう。

その時私はうどんとセットのミニカツ丼に取りかかるタイミングだった。以前まで3切れ乗っていたカツは、2切れに減っていた。

まったく世知辛い世の中である。耄碌した老人のおっぱじめた下らぬ戦役のために何もかも値上がりしておる。今後機械が更に発展して『ターミネーター』の如く人類を脅かしかねないとしても、人類は機械に滅ぼされるまでもなく、機械を過信して勝手に滅んでいくのだろう。

その前にBMWで公衆便所に突っ込むことができるのは、実は今だけかも知れない。機械は機械を過信しないので、自動運転車が公衆便所に突っ込むことはないのだ。もはや公衆便所に突っ込むことはドイツ人とドイツ好き人の、いや人類の尊厳である気がしてきた。あなたも公衆便所に突っ込みたくなってきたのではないか。公衆便所に突っ込んで人類の尊厳を取り戻そう。耄碌した老人だって隣国に突っ込まず、戦車で公衆便所にでも突っ込んでいればよろしいのである。戦争をやめろ。便所に突っ込め。

私は泣いているのだ。それはミニカツ丼のカツが減っているからではない。断じてないのである。