雑記日記

概ね無職。

「ただの存在」という恐怖

恐怖とは、突き詰めてしまえば「理由付けを拒絶されること」である。

幽霊を怖がるのも、その存在そのものが我々が信奉する科学の埒外にあるからであり、百歩譲って何かしらの物理的現象が起こっているとして、その物理的現象を引き起こしたはずの力学がそこに求められそうにないからである。

高い場所が怖いのも狭い場所が怖いのも、あるいは人によっては尖ったものやブツブツしたものなどが怖いのも、それを恐れる理由が分からないからである。理由や原因を推察したり組み立てたりする足場がない、ということに人は恐怖を覚えるのだ。

昔、panpanya氏の『引っ越し先さがし』という短編漫画に、"訳なし物件"なるものが出てきた。

築6年、何の変哲もない物件なのだが、家賃が"訳もなく"安いのだ。"訳もなく"ダミーのコンセントがついていたり、"訳もなく"洋室に襖がしつらえてあったり、"訳もなく"天井の一部が出っ張っていたりする、という物件なのである。

結局主人公はその物件に入居することをやめたわけだが、その理由として"訳が分からなければ安心はない"ということを挙げている。

実際我々の生活の中にあっては、"訳なし"、すなわち"ただの存在"というものはほぼ存在していない。理由あってそこにある。そこにいる。そこに売っている。見渡せばみな何らかの理由があって、存在しているのだ。

考えてもみたまえ、あのさも当然のような顔で座っている山や泰然と流れている川ですら、「どうしてここにあるのか」という理由付けは為されているのである。"おそらく"と枕詞はつくが、大体何万年前にこうこうこうなって出来たのだ、と理由付けがあるのである。そこに山の怪や河童などの恐怖が差し挟まる余地はない。そもそもそれら妖怪という存在ですら、人間が様々な現象の理由付けのために生み出した概念に過ぎないのであって、それが近代以降、科学というより蓋然性のある理由に取って代わられただけの話だ。

すなわち、人間の好奇心は恐怖と表裏一体だということである。なぜ、どうして、という恐怖からの問いに耐えられなくなって人間は好奇心を行使するのだ。危険かもしれない、と思っておきながら、その実は安心したいのである。

幽霊の正体見たり枯れ尾花――と諺にもあるように、我々は物事を因果律に沿って捉え、ある程度筋道が立てば安心する。その過程で陰謀論にハマったりする虞もあるのだが、その話はこの雑文とは一切関係ないので割愛する。この過程は一見理論的であるようにも見えるが、これは因果律に担保された安心感を常に私達にもたらしてくれるとともに、よりその埒外にある存在との落差を深め、恐怖をより大きなものにすることにも着目したい。

トマソン」という存在がある。

これは主に不動産に付属し、何の役にも立たないのに、展示されるかのように美しく保存されているものを指す呼称で、赤瀬川源平らが1982年に提唱した概念だ。例を言えば無用の階段、無用のトンネル、無用の窓など。

先ほどの"訳なし物件"などはその典型だ。ただし、トマソンは「かつては意味があった」ものも内包する用語であり、"訳のない天井の突起"などはトマソンの分類で言えば何故作ったのか分からない"純粋タイプ"と呼ばれるものに当たり、区別されることを留意されたい。

実際には、純粋タイプと目されるトマソンの中にも、全く理由なく存在しているものはほぼないだろう。それはトマソン自体が事実上来歴や理由には無関心の概念だからで、そこには必ず何かしらの理由があるのである。

それ故に、「ただ存在しているだけの存在」というものは恐怖である。実際のところ、世界と人間が作りだしたものには全て理由、または理由付けが出来る。宇宙の始まりですら推論があるのだ。しかしながら、人間のそばにありながら理由付けがまったく行えない「ただの存在」たり得るものがひとつある。

それは「人間そのもの」である。

我々はただ存在している。ミクロな視点でなら、明日会社に行かねばならないから生きているとか、そういうことは言えようが、会社に行かずとも、もっと言えば生きて生殖をせずとも、本質的に人間はただ存在しているのである。

宇宙には推論がある。宇宙に存在する星々にも推論がある。すなわち、その星に住んでいるかも知れない生命には推論がある。ということは、その生命は「ただの存在」たり得ないのである。この広大な宇宙の中で「ただの存在」たり得る人間は孤独な種族であり、そうなればこの観測可能な宇宙、150億光年の大きさの中に隣人はいないのだ。我々の実際の孤独は、谷川俊太郎が覚えた20億光年の孤独の7.5倍であった。

あるいは我々が信奉する科学こそが間違っているという可能性はあるだろう。科学は未だに発展途上であり、ことあるごとに修正されている。しかしながら根底に流れているのは因果律であり、因果律が破壊されてしまうと、全てが立ちゆかない。我々の存在こそが我々の生み出した科学を打ち砕く弾丸になってしまうのだ。

「本当に怖いのは人だよ」とうそぶくホラー映画マニアも、なまじ間違ったことは言っていないのだろう。我々こそが恐怖である。別にアンゴルモアの大王とか、マヤ暦とかを持ち出すまでもない。

そのことに自覚的に生きたいものだ、ただの存在として……。