雑記日記

概ね無職。

本の回虫

困った困った。さて何に困っているかというと金欠である。

良識のある皆々様は私が金欠だと言うと、代わりに社会の構造欠陥や政府の無策を嘆いてくれるだろうが、諸兄らはたった一言「働け」と言ってお終いにしてしまうだろう。知ってるんですからね。

勿論私は無職である。働いていないので金がないのである。残念ながら本邦は社会主義を標榜する国家体制ではないので、職にあぶれているのである。かつての社会主義国では3ヶ月間職にありつけないと拘禁を食らったりしたそうだが、私は当局にバレれば一発で5回の終身刑を言い渡されるレベルで無職である。

何かになりたくて無職なのではなく、何にもなりたくないから無職なのである。かつては私にも夢があったし、それなりに努力もしたが、その過程で精神を病みかけて何もかも失敗し、失意の中帰郷して縁故就職した会社で陰湿な嫌がらせとセクハラを受け、私は完全に社会を信頼することをやめた。

いや、別に恨みつらみをここで開陳したいわけではないのである。今となってはそれも昔のこと。一時は地下鉄のホーム柵を乗り越えてしまえばとまで思ったが、恨みつらみもやっと薄れてきた。今では、雨が降れば前職の職場が沈めばいいと願ったり、雪が降れば前職の職場が雪害で倒壊すればいいと願っているだけである。うむ、遺恨は根深いな。

実家に寄生して生きている回虫のような生活ゆえ、職のあるなしが生き死にには直結しないからこそ危機感が薄いのである。起きて飯を食い、クソして寝る生活をしているうちに数年が経っていた。他人の人生など心底どうでもよいので、友人や同期達がどうなっているかなどには興味もない。そもそも友人と呼べる人は片手どころか腕の数で足りるほどしか残っておらず、同期達に至っては学校を出てから連絡したこともないから、例え興味があったところで知りようがないのである。

話を元に戻そう。なにゆえ金欠なのかである。

3、4、5月は全般に出版ラッシュであり、新生活で通勤通学時間に暇が出来た人々を狙い撃ちするため、出版社は手軽な文庫本や新書で魅力的なラインナップを次々ぶち上げてくる。入手難が続いていた海外作家の作品が新訳版で再発されたり、人気作家の短編集が書き下ろし込みで出版されたり、暖かくなってきておそらく気の触れかかったのであろう編集部が、奇書中の奇書と呼ばれる本を再発したりするのである。

文庫本は手軽である。ポケットにも収まるサイズで、町中や電車内で読んでいても別に怪しまれない。少しおしゃれですらある。これが電話帳だったり広辞苑だったりしてみたまえ、それは立派な不審者である。辞書を持ち歩いている人物は残念ながら不審者と見なされるのである。

生憎、かつて家に他に読むものがなかったため電話帳や辞書を持ち歩き、時には人目のある場所で読んでいた私は既に不審者の側であるので、これ以上怪しまれるような行為は避けたい。二宮金次郎が歩きながら本を読んでいたのだって、子供だから美談にされたのである。私は勿論二宮金次郎に憧れたわけではなく、ただ活字以外の情報を目に入れたくないあまりに、歩きながら文庫本や新書や四六判のハードカバーや地図帳や電話帳や漢和辞典を読んでいたわけだが、それが許されたのも私が子供だったからである。今考えると恐ろしい。よく車や自転車やキックボードや散歩中の犬に轢かれなかったものだと思う。

それなりの歳になってしまった今、道を歩きながら本を読んでいるところを万が一誰かに目撃でもされたら、間髪入れずに通報されてしまうだろう。そういうときに限って読んでいる本が『殺戮にいたる病』だったりするので最悪である。背負ったバックパックにたまたま包丁が入っていないとも限らない。そうなってしまえばもう言い逃れは出来ない。

私がいつもバックパックに護身用と称して出刃包丁を忍ばせて歩いているタイプの不審者かどうかはさておき、私は屋外で腰を据えて本を読むことをあまり好まない。

仙台に住んでいた頃の話なのだが、中心街の古本市で買ってきた文庫本を、アパートの最寄り駅そばにある自然公園のベンチに座って読んでいたことがあった。季節は梅雨前で、仙台の街がいちばん過ごしやすい季節である。少し肌寒かったが、私は本の内容が気になるあまりアパートの部屋に帰る間も惜しんで、そこで読書を始めてしまったのだ。

活字の小さな古本だった。それを1/3程度まで読んでいたので、1時間かそれ以上はベンチに座っていたことになる。私は鞄に入れた飲み物を取り出そうとして本から目を上げ、そしてぎょっとした。

公園には他にもベンチはあるというのに、同じベンチ、つまり私のすぐ隣に、いつの間にか見知らぬ老人が座っていたのである。座っているだけならまだいいのだが、老人は私の顔を凝視していた。禿頭に汚れのようなシミが飛び散り、張りのない皮膚が骨張った頬に垂れ下がっている。薄い唇を半開きにして、落ちくぼんだ目は真っ直ぐ私の顔に向けられていた。

いつ座ってきたのかも分からない老人が、それなりに無理のある姿勢で隣に座っている私の顔を凝視している、という構図に不気味さを覚えないのであれば、それはもはや人ではない。

あまりのことに脳が機能不全に陥った私は、本を読んでいた姿勢のまま、弾かれるようにベンチを立った。そのまま駅のほうに向けて歩き出し、公園を出るところで元いたベンチを振り返ろうとして思いとどまった。振り返ってまた老人と目が合うようなことがあったら、絶対にあの生気のない顔が今夜の夢に出るからだ。いやそれよりも、もしも振り返ってすぐそばに老人が立っていたら、私はおしっこを漏らす自信があった。

そのまま(不安からちょっと回り道をして)私は帰宅したのだが、幸いにも仙台に住んでいる間にその老人と会うことは二度となかった。

そんなことがあった手前、私は屋外で本を読むことは避けている。もしそうせざるを得ない場合は、ひとり掛けの席か角っこに座るようにしているくらいだ。少なくとも公園のベンチで本を読むことはもうない。

……また話が大きく脱線してしまった。

つまり何が言いたいかというと、春先は面白そうな文庫本の出版が重なるため、1冊数百円だからと軽い気持ちでホイホイ買ってしまってから泣きを見るのである。現に泣きを見ている。

週刊連載の漫画なども春先に単行本が出ることが多く、それらもちまちま買うとそれなりの値段になる。ミリタリー畑の資料本や手記などの出版が相次いだのも痛かった。この辺りの本はあるとつい買ってしまう。ビールの横に売られている豆菓子じゃないんだぞ。

どだい、本好きという人種はみんなどこかヘンなのである。おっかしいのである。

本好きという人種の部屋では、本棚の入居率が100%を超過していることなど日常茶飯事である。私の文芸書用本棚などはさながら立体テトリスの如き詰め込まれ方をしており、おそらくではあるが入居率は既に400%を超えている。かつての九龍城のような惨状である。だいたい、何か本を探したりなどしてひとたび本棚から十数冊本を取り出してしまうと、元あったはずの棚に本が戻っていかないのだ。さながら四次元本棚である。

ちなみに、この本棚は背が高い上に、部屋の構造上出入り口のすぐ横に配置されており、すなわちもし巨大な地震が起これば、本に出入り口を塞がれて私は自室で餓死することになる。

また本好きというのは、たまに珍しく本を処分したり売却したりして本棚にほんの僅かの間隙が出来ると、喜び勇んで処分した量の3倍にあたる本を買ってきてしまったりなんかしちゃったりするのである。オーバードーズでぶっ倒れて矯正施設に入れられた挙げ句、出所した際に「やった!キレイになった!これでまたドラッグが出来る!」と放言したキース・リチャーズのような話である。まあキース・リチャーズは定期的に血を入れ替えないと死んでしまう奇病であるので仕方ない。仕方ないことがあるか。

そんなわけで、私は今日も人ひとりの命を奪うには十分過ぎるほど大量の本に埋もれてカカカと笑っているのだ。……うーん、不審者であるな。どうにかして不審者予備軍で踏みとどまろうと思ったが、我ながらぐうの音も出ないほど不審者であった。

ぐうの音も出ないほどの不審者はおとなしく部屋にこもる以外に処世訓が存在しないのであるからして、私が無職を卒業するのも、金欠が解消されるのも当分先のことになりそうである。

かつて、「同情するなら金をくれ」と言ったTVドラマがあった。先述のように私は同情される余地は少なく、反対に無職である分、他者に同情する余地は多分にある。いっそこれからは「同情するから金をくれ」だ。他者にむやみやたらに同情してさしあげて、そのお代を頂くのだ。同情をビジネスに出来る時代はそこまで来ているはずなのだ。

……そんなことを標榜してオンラインサロンなんかを開催すれば、濡れ手で粟を掴むように銭が手に入ったりしないかねえ。