雑記日記

概ね無職。

打鍵する人間愛の天然無能

 大変なのである。

 何が大変なのかというとこれである。

ai-novel.com

 耳の早い諸兄らは既に知っているだろうが、これは極めて高いレベルで日本語を出力する人工知能である。重苦しい私小説やインターネットが無限のフロンティアだった頃の雑文、果ては昭和軽薄体まで何でもござれのハイスペックで、何回か使ってみた限り、数百文字程度の短文では殆ど破綻しない。お前は重松清か!と言いたくなる。

 これは恐ろしいことである。私は先だってこんなことを書いていた。

代筆といえば、私の文章は一見、流行りの人工知能というものにも執筆できそうであるが、私という天然無能の思考回路を再現するのは逆に難しいはずだ。人工知能というのは、シェイクスピアやダンテやトルストイ谷崎潤一郎などのきら星の如き作家達を読んで文章を学ぶのだから、筒井康隆しりあがり寿夢野久作を読んだ上でエログロナンセンス以外を出力している私の文章に近づくことすら出来ないだろう。

打鍵するチンパンジーの人工知能 - 雑記日記

 なーにが近づくことすら出来ないだ。

 まあ、論より証拠である。先日書いた雑文(本の回虫 - 雑記日記)の冒頭2行のみを入力して続きを書かせてみたのがこちらだ。うっかりブラウザで出力してしまったので非常に画角がアレゲなことになっているが、目をこらして読んでもらいたい。

 ……どうだろうか。私がまず驚いたのは、人工知能の頭の良さである。"つまり私の労働意欲は空転しっぱなしなのである"というくだりなど、最高にデカダンがキマっており、しびれる。似たような文章は乱歩か太宰か芥川だったかで読んだ記憶があるが、この際そんなことはどうでもよい。

 加えて、この出力された文章をよく読んでみると、「分かりきったことを持って回って説明するように書く」という私の雑文の癖がしっかり転写されている。たった2行からこの癖が転写されるのだからすごい。

 ちなみに、私の説明がくどくなるのは大抵冗談を言っているときである。金魚の糞のようにキレの悪い冗談を延々言うので、飲み会では煙たがられておる。かなり盛り上がっている飲み会の席上、冗談を他の参加者に「もういいから」と懇願されて中断した経験のある者がどれほどいようか。

 私も私で、クソのキレが悪いことを「切れないナイフで四肢を切断するようなジョーク」と自嘲のふりをして気取ったりするのでタチが悪いのである。だいたい、切れないナイフで四肢を切断するという描写そのものが人を選ぶ。なるほどと膝を打ってくれるのは、殆どが『SAW』シリーズを全編見たとかいう異常者のみだ。私はやや意外にも異常者の類いは得意ではないので、彼らと仲良く語らうことは出来ればご遠慮願いたいところではある。

 しかし、すごい時代になったものだ。そのうち、人間に許されるのは人工知能の良き編集者たり得ることだけになるだろう。おっそろしいねえ。やはり人工知能が天下を取る前に、我々はBMWで公衆便所に突っ込んでおくべきなのだ。……分からない人はもう結構!

 その一方で、この人工知能の弱点というのも少し見えてきた。この人工知能、常体・敬体の違いを判別して地の文の運びをどこに着地するか見極めているような雰囲気があるのだが、それ故に私小説の如き重苦しい文体で始まった文を笑い話に着地させられないのである。これは面白い発見だった。

 諸兄らのうちにも異論はあろうが、私の雑文は基本的に常体で書かれており、扱っているものはユーモアとナンセンス(あるいはホラー)である。これは某かの作家を参考にしたとかいうことではなく、かつての"雑文書き"達がみな常体で文章を書いていたことと、私がナンセンスを扱う以外に作文法を知らないからである。

 ではいつからナンセンス以外書けないのか?というと小学生時分からで、卒業文集に載せる作文を全編会話文で書いて提出し、こっぴどく叱られたことがある。当時の私はご多分に漏れずスレたガキであり、小学校を卒業する程度のことに何の感慨も持てなかったため、奇行に走ったのである。それに加えて既に希死念慮というか頽廃的自我が芽生えており、「将来の夢」というテーマのスピーチで大真面目に「世界の終焉の可能性」と「そのような時代に何かを期待することの空しさ」を語り、聴衆の父兄らを絶句させたこともあった。書いていて恥ずかしくなってきたな。

 実際のところ、ここ十数年の間、世界は終末時計の針を押しとどめることに必死であるのだから、将来に何かを期待することが間違っているのは自明である。自明であるが、そんなことを小学生の口から聞かされたくはないと思う。私自身ですらそう思う。

 人は誰しも、必死で見て見ぬふりをしているものというのがある。私の場合は履歴書の空白だが、健全なホモサピエンスにとっては社会、ひいては世界の崩壊こそ直視したくないものだろう。その前提が分かっておらず、また手心を加えることもしなかったのだから、私は幼かった。今となってはリカちゃんのお靴並みに苦い思い出である。

 そもそもの話、作文という課題は元々表現力を必要とされていない。既に起こったことに対して、自分がその時何を思ったかを書けばいいのである。そこに筆者の葛藤や人生観、読者へのサービスなどが介在する必要は全くない。どんなに作文が苦手なお子様も、数種類の例文から選択して巧く繋げば、そこそこの作文が書けてしまうのだ。

 これに対して常々考えていたのだが、どうも私という人間は空っぽ、がらんどうであるようで、何もかもが私を素通りしていってしまうのである。

 自分という器の中に信条だとか美学だとか、何かそういった筋や梁のようなものが通っていれば、外部から入ってくる物事はそれにぶつかったり引っかかったりもするし、それらを消化すれば何かを思うこともあるだろう。

 ところが私には信条や美学といった骨組みが一切なく、「まあ、そういうこともあらぁな」という諦観に似た自若さだけが横たわっていたため、消化すべき引っかかりも起こらず、結果として感情が浮かばなかったのである。よく言えば泰然、悪く言えばでくのぼうである。私は小さい頃から本の虫だったので、覚えた感情を説明しうる語彙が足りなかったという訳ではない。説明するべき感情が起こらなかったのだ。

 そんな奴には「何を思ったか」だけを問う作文という課題は酷である。当然だが、何も思っていないのだから何も書けない。ない袖は振れぬのだ。心はいつもノースリーブである。見苦しいほどノースリーブである。まだしもランニングのほうが露骨なぶん見られる。ノースリーブの中途半端さが人は恥ずかしいのである。冗談はさておき、私はそのために作話を覚えた部分がある。苦し紛れに嘘をついてばかりの人生であるな。

 よって、時たま何かの事象ではなく自分自身について書けと言われると、如何せん自分の中にちゃんと横たわっているのが諦観のみであるが故に、先に書いたようなエスカタロジストはだしの文言をぶち上げてしまったりしていたのだ。はっきり言えば異常である。

 ……あまり育ちのせいにしてばかりいると夢枕に祖父と茨木のり子泉谷しげるが立ちそうなのでこのくらいにするが、つまるところ私がナンセンス以外書けないのは、他に何も語るべきことがないからである。幸いにして、ナンセンスの名の下には、私のようなピンポン球の如き存在も何かを語ることを許されるのだ。

 実際のところ、ナンセンス以外を語ろうとすると、いつか馬脚を現すのではないかと思って不安で仕方がない。私が他に語れるものといったら希死念慮と仙台で買うキャベツのまずさくらいのもんであるが、そのどちらもあまり人に聞かせるべきものでもないので自重している。それにしてもまずいったらないんだよ、仙台のキャベツ……おっと。

 つまり、私がここでナンセンスを語るのは、消去法によるものとはいえ大いなるサービス精神と人間愛の表れであり、天よりも広く海よりも深い私の心だからこそなせる術である事を強調しておきたい。分かったら、諸兄らは「ここで笑って欲しいんだろうな」という部分を察知した場合すぐさま笑うべきである。笑えって言ってんだよこの野郎ッ。

 更にはフォントカラーやボールドを極力使わないのも人間愛である。なかなか更新しないのも人間愛である。更新したらしたで冗長な文を書くのも人間愛である。そう考えると、私とは何もかもが人間愛で出来ている。そろそろこの暴走する人間愛を少しでも昇華するために、南米あたりに土地を買って、諸兄らと集団移住して町を作るべきかも知れぬ。王様は僕だ、家来は君だ。

 諸兄らも気付いているだろうが、人間愛とはつまるところ、厭世のなせる業なのだよ。