雑記日記

概ね無職。

雑文(現地改修型)

 今日の雑文は省力生産である。沈頭鋲の取り付け箇所にフィラーを盛って削り出し、その上からサフを吹いて塗装していたのが、フィラーも削り出しもサフも省いて、ベコベコのジュラルミン板にそのまま暗緑色を吹き付けるようになった、というあの省力生産である。この例え、分からない人には一切分からないであろうな。例を引いてより話を難解にするのは私の悪い癖である。

 この度、一部の界隈である心理学上の効果が話題になっていた。長々と書くのは面倒くさいので、もうズバッと書いてしまおう。ダニング・クルーガー効果である。

 ダニング・クルーガー効果とは、簡単に言ってしまえば「能力の低い者は、能力の低さ故に自己を過大評価する」とする仮説のことである。

 結論から言えば、この仮説に関しては「追試でそのような傾向があることは確かめられているものの*1、それが能力の低さに起因するものかどうかは分からないし、傾向そのものも限定的である*2」ということで一応の決着を見ている。初めて脚注使った。

 インターネットに長く浸かっていると、キナ臭いコンテンツを嗅ぎ分けることだけがうまくなる。そんな諸兄らのために早い段階で断っておくのだが、勿論私はインテリゲンチャではなく、心理学や行動経済学を学んだわけでもなく、この場も社会に対する義憤を迸らせるものではないので、諸兄らはどうか安心して肩の力を抜いて欲しい。

 キナ臭いコンテンツを嗅ぎ分けることは、今も昔もインターネットを渡り歩く上では必須のスキルである。そうでもしなければパソコンに物理的な被害を被ったりした過去も過去であったが、SNSという増幅装置に感情をむやみやたらに増幅された結果、「世界の真実を自分だけが知っている」という優越感を容易く与えてくれる陰謀論にスポスポハマっていく現代も現代である。

 諸兄らがかように嗅覚を逞しくさせたのは、生存のため致し方ない側面もあったのだろう。大儀なことであった。これからはその嗅覚を存分に活かして、爆発物探知犬の代わりに空港などで働けばよい。

 一部の諸兄らが喜びそうなプレイの話はさておき、この度話題になっていたのは「ダニング・クルーガー効果が全く根拠のない話であるかのように解説したブログ」であった。

 先ほども書いたが、ダニング・クルーガー効果の現象そのものは追試でも確かめられており、全く根拠のない話だとするのはかなり不誠実な態度といえよう。まあインターネットに自尊心をぶくぶく飼い太らされた輩には少々耳の痛い話であるから、盲滅法に反駁したくなるのも分からないでもない。少なくとも、ダニング・クルーガー効果の実際を知らなかった頃の私であれば、この手の話は喜んで読んだかも知れないな……と、私は過去の自分を律するようなつもりでこのブログを読んだ。

 ところがどっこいである。前提の誤謬を抜きにしても、このブログというのが読者をイライラさせるのに関して、それはそれは天才的な文章運びを見せたのだから、私はうんざりしてしまった。筆者が自分の学歴や見識の高さを鼻に掛けているのは火を見るよりも明らかで、世間を斬った気になって悦に入っているのが文章の節々から滲み出している。

 それでも私は、良薬口に苦しと言うし……と当該ブログを読み進めたのだから褒めて頂きたいものである。そもそもの話、これは良薬などではなく、殆ど栄養素サプリメントのような「飲まなくてもいいもの」でありながら、リカちゃんのお靴*3並みに苦々しいものであったので、私の苦痛の価値も2倍3倍に跳ね上がるものだと私は信じる。倍率ドーン、はらたいらさんもえびす顔である。

 私が例の潜性遺伝のピカチュウ*4くらい顔をしわしわにしながら当該ブログを最後まで読み進めたところ、衝撃の事実が発覚した。筆者が所謂”情報商材屋“だったのだ。

 情報商材屋である。人を悪し様に言って日銭を稼ぐ仕事である。私も文明人の端くれである以上職業に貴賎があってはならないと強く信じるが、他者を食い物にしてのうのうと暮らす者は別である。それは我々プロレタリアートの純然たる敵であって、打倒されるべき存在である。インターネットにも蛇蝎の如く嫌われており、勿論私にも蛇蝎の如く嫌われておる。ちなみに私は蛇蝎、つまるところヘビとサソリであるが、この両者のことは割と好きである。どうでもよい。

 全てがひとつに繋がってしまった。自分以外が馬鹿だと信じ切っている筆致、世間を斬った気になっている粗暴さ、そして誤謬を無視する面の皮の厚さ。考えてみれば、全てが情報商材屋という一点を指し示していた。

 勿論、情報商材屋だからと言って書くものが全て無価値だというものではない。情報商材屋のくせに誤謬を含んだ文章を書くから無価値なのである。そもそもマイナスからスタートしておるのだから、そのあたりには自覚的であってほしい。諸兄らも異性に好意を持って貰いたければ、必要なのは足し算であって掛け算ではないことを努々忘れぬほうがよい。ゼロには何を掛けてもゼロであり、マイナスにプラスを掛けても負債が大きくなるだけである。

 私は悲しい。例えばこれが本当に良薬や栄養素サプリメントやリカちゃんのお靴であれば、口から吐き出すことも容易いし、口直しと称して何かを食うことも出来る。

 しかし文章や知識ではそうはいかない。諸兄らも、これまでの人生の内で忘れてしまいたいことがあるだろう。しかしそうは問屋が卸さないのである。第一、諸兄らの場合、諸兄らが忘れたとて、例の一件はなかったことにはならないのですよ。*5

 こうして心が食ってしまった毒を吐き出すには、冷笑主義に則った雑文を書くことが一番である。古人は言った、心につける薬はないと。心は情報の消化器官であるので、虫下しを食わせるのが一番である。

私の溜飲は下がった、諸兄らも好きにしろ。こうして省力生産された飛行機の如く、推敲もほどほどにこの雑文も尻切れトンボに終わっていくのである。