雑記日記

概ね無職。

お知らせ

 唐突だが本サイトは移転した。

 暫定ではあるが移転先はこちらである。

itsonlyapaper-moon.blogspot.com 詳しい経緯も書いてある記事にリンクを張るので、各位参照されたい。ここで論っている問題が解決するようなことがあればこちらでの更新を再開することもあり得るが、そんなことはどうせ起こらないので私の雑文を読みたいという奇特な諸兄は素直にブックマークを更新してくれると助かる。以上。

2分の1忘れちゃってんだ

 チーズケーキを焼いたのである。

 何を隠そう、私はそこそこ菓子作りが好きなのだ。簡単なケーキや焼き菓子などをちまちまと作っては食べている。これで本当に脇目も振らずハマりこんでしまえば私のクオリティ・オブ・ライフも些か向上するだろうが、それほどドツボにハマるような真似が出来ないからこそ私は未だに無職を続けているのである。尤も、そのようにしてドツボにハマれば私の身体とて(主に横幅が)無事でいられるはずがないので、これくらいでいいという見方も出来るのだが。

 今回焼いたのは、所謂バスク風チーズケーキというやつである。主にフランスとスペインの国境に跨がるバスク地方で作られる、表面をしっかりと焦がしたチーズケーキだ。私が参考にしたレシピには「フランスの伝統菓子」と書かれていたが、バスク地方と呼ばれるエリアはどちらかと言えばスペイン側に偏っており、更にはこのケーキの元祖とされる店はスペインにあるらしく、より厳密に言えばスペイン菓子なのではないかと思うが、この辺りはつつくとろくでもない蛇が飛び出しかねないので、迂闊なことを書く訳にはいかない。私にも失うものというのはあるにはあるのである。

 さて、バスク風チーズケーキの特徴は、何と言ってもその簡素さにある。クリームチーズと砂糖と卵、あとは生クリーム程度しか必要としない。薄力粉やコーンスターチなどの粉類を入れることもあるが、それらを入れたとて片手で足りる構成材料である。

 菓子作りというのは材料の数が少なくなれば少なくなるほど失敗しにくくなる傾向にあり、このバスク風チーズケーキというのもレシピを調べてみると大抵は「簡単!」とか「手軽に!」といったような惹句が並んでいる。それくらい、世間には簡単だと目されているケーキなのである。

 朝早く起き出し、卵と生クリームを常温に戻す。クリームチーズは前日の夜から常温に戻している。ちなみに朝早く起き出して準備をするのは、ケーキを昼前までに焼き上げ、我が家に1台しかないオーブン兼用電子レンジを昼食の準備に使えるようにしておくためである。型などの下準備をして、オーブンの予熱を始める。

 生地の準備は簡単……ではなかった。全卵と卵をすり混ぜ、練って滑らかにしたクリームチーズに混ぜる……混ぜるのだが、このクリームチーズが異様に固かった。とにかく固かったのである。一晩常温に置いておいたとは思えないほどカッチカチである。今回、輸入食品の店でしこたま買い込んだ外国産のクリームチーズを使ったのだが、それがよくなかったのかも知れない。数十秒電子レンジにかけて柔らかくしようかとも思ったが、その頼みの綱の電子レンジは今オーブンとして既に予熱が始まっている。

 泡立て器では埒が明かず、私はゴムべらを手に取った。細い金属で出来た泡立て器より、鉄心の入っているゴムべらの方がまだしも馬力があると踏んだのだ。ゴムべらで切り混ぜ、押し潰すようにしてなんとかクリームチーズを練り混ぜようとするが、クリームチーズはボロボロと細かくなるだけで一向に滑らかになってくれない。

 私は泣きそうになった。少々水気を与えた方が滑らかになるかと思い、卵液を少しだけ入れて混ぜてみたが、混ぜれども混ぜれども完全に分離している。卵液の海に細かなクリームチーズの島が無数に浮いていた。傍らにはクリームチーズの大陸が控えている。手軽で簡単とは何だったのか。

 泡立て器でも駄目、ゴムべらでも駄目、となると、もう私の貧弱な経験と発想から導き出される結論はただひとつである。文明の利器を使うのだ。

 私は電動ハンドミキサーを手に取った。諸兄らは何故最初からそれを使わなかったのかと非難するだろうが、この電動ハンドミキサーは私の祖母の代から使われており、軽く勤続30年を数える大ベテラン選手である。よってあちこちにへたりが来ており、固くて重たいクリームチーズを練り混ぜるのには荷が勝るのだ。当面の間買い換えをするつもりもないため、私の腕っ節でどうにかなる作業であればあまり使いたくはなかったのである。なにせ卵白を泡立ててメレンゲを作る程度の作業でも、周囲にはモーターの焼ける臭いが漂うのだ。

 スイッチを入れると、ハンドミキサーは猛獣のような唸りを上げてクリームチーズに食ってかかった。痩せても枯れても、腐っても鯛である。あれほど固かったクリームチーズはすぐにバラバラにちぎれ、すり潰され、細かくなっていった。安心した私は他の材料を次々と加え、ついに生地は仕上がった。濡らしたオーブンシートを敷き込んだ型に流し、予熱を終えたオーブンで40分ほど焼き上げる。

 オーブンの扉を閉じて、私は椅子になだれ込んでしまった。菓子作りというのは大抵想定外が起こるものだが、これほど簡単だとされるレシピですら想定外に襲われるとは思わなかった。調理台にはその格闘の跡がそのまま放置されている。焼き上がりを待つ間に片付けもしなければならない。

 しかしまあ、このような固いチーズを、電動ハンドミキサーもない時代から人力で練り混ぜ続けてきたバスク地方の人々は一体どれほど怪力なのだろうか。幼少よりクリームチーズを練り混ぜ続けた結果、彼の地の人々は利き腕だけがムキムキになっていてもおかしくはなかろう。諸兄らも彼の地に旅行する際は気をつけて欲しい。うっかり現地の人々と握手をしようものなら、中手骨を粉砕されかねないのだ。

 ……このようなことを書いていると、また怒られが発生してしまう。ケーキ自体はしっかりと焦げた表面が香ばしく、濃厚な味わいに仕上がった。諸兄らも私なんかに目くじらを立てるのをやめて、このチーズケーキを作ってみて、そのうまさを体感しどうか矛を収めてほしい。もしかすると、諸兄らも菓子作りのドツボにハマるかもしれないしな。もしそうなれば、私はクリームチーズの練りすぎで利き腕だけがシオマネキのように膨れ上がった諸兄らを呼んで、私のクリームチーズを練ってもらうことにしよう。

11月20日

 11月20日である。

 この日が何の日かというと、そうイタリア王マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァの誕生日である。ちなみに本邦では、その名を冠した料理であるところのピッツァ・マルゲリータと関連付けてピザの日とされている。

 以上は年に一度あるかないかのこよみ雑学であって、今日はこのページを開設してから2周年の節目である。

 いつの間にやら2周年である。休止期間もあったし、内容や方向性も未だ定まっているとは言いがたい当ページであるが、基本的に私には歳を取った以外の変化がないので驚く。

 驚いてばかりもいられないが、実際のところそうなのだから仕方あるまい。当初は純然たる日記としてスタートしたこのページは、運営者たる私が勝手にコンテンツの存在価値に悩み、記事の完成度というハードルを上げたせいで見事に機能不全に陥った。

 何しろ無職の生活は本当に変化というものがない。感情の些末な機微は勿論あるが、無視できるレベルの大きさでしかあり得ない。なので、そんな人間が日記を書いたところで「くそしてねた」以上のものにはなり得ないのである。当たり前の話だ。

 そして以前書いたように、私は特に何も考えることなく日々を生きている。何も考えていないのだから何も書くことがない。これまた当たり前の話である。ない袖は振れぬ。心は今もノースリーブである。

 私は殊勝にもそれではだめだと考えたのだから、インターネットの末席を汚す者としての、その気高さにも似たストーリーテラー的自己認識に一片も疑いの余地がないことは、諸兄らにもお分かりいただけると思う。

 私という店子は、大家たるインターネットにコンテンツを提供することで住所を保てるのである。その代わり、インターネットは店子のことには知らぬ存ぜぬを突き通して極力触れぬし、私とて時には大家の悪口を吹聴する。そこに賃貸契約以外のいかなる関係もない。それが理にかなった陣地確保の仕方である。英国王室とロンドン市民の関係のようなものだ。

 すなわちインターネットにコンテンツを提供出来なければ、我々に与えられる陣地は極小となる。ラッシュアワーの電車よりも酷い。この契約を履行する限り、少々のデメリットがあるのも致し方ないことである。何も大家は、ご近所さん達と仲良く付き合えと強制しているわけではないのだ。気が付けばそこら中の押し入れや床下から知らぬ顔が次々と我が物顔で這い出してくる、『椿三十郎』のワンシーンのような事態になりかねない。

 さて話を元に戻すと、私の高邁な理想を現実のものとする上での問題は、いざひとかどのコンテンツたり得ようとしてみると、あまりに割かねばならないリソースが多かったことである。

 諸兄らも存じているだろうが、一度はギターいじりをコンテンツ化しようとしたことがある。

 言うまでもないことだが、ギターをいじるためには元手がいる。パーツだって買えば高い。ネジが10本で1000円ほどもする狂気の世界である。まあ、ネジくらいならそこらのホームセンターを根気よく探せば同等品が(1/10ほどの値段で)買えてしまうが、ブリッジやピックアップなどのハードウェアではそうはいかない。

 それに、きちんと記事にするためには作業の前後や経過などの写真が不可欠である。このブログサービスにもデータの上限というものが存在する以上、あまりバカ丁寧に写真を添えることも出来ない。いちいち見苦しいものや諸般の事情でお見せできないものを画角から外して撮影することも手間である。そんなセッティングをしている時間があるなら、さっさと作業を終えてしまいたいのが人情というものだ。

 分かりやすい写真やキャプションのことを考えるあまり、手元がおろそかになり作業途中にギターに傷をつけたので、私はこれをコンテンツ化することを見限った。だいたい、本職のリペアマンでもない人物(一応専門教育は受けているが)が行ったギターの改造記録など、誰が読むというのだろう?私以外にそんな奇特な人物がいるとは到底思えない。

 次に私が考えたのは、映画評をコンテンツ化することだった。幸いにして、私の好む映画というのは限局されており、かつニッチである。名作と呼ばれる映画を網羅的に観ていなくても、ニッチなジャンルばかりを挙げ連ねておけば、あとは量を書きさえすればコンテンツたり得るだろうと思ったのだ。

 しかしながら、いざ映画評を書いてみると、これがなかなか難しいのである。簡易的に映画のあらすじとツッコミどころを併記した文章では、ほどよく軽妙に書けても字数が稼げない。映画の時系列に沿って丹念にツッコミどころや解説を書くと、これはもう完全にネタバレであるし、第一冗長である。

 字数が多ければいいとか、ネタバレにはあくまで配慮すべきとか、そういうことは私自身は全く考えたことはないのだが、このふたつはインターネット上のコンテンツにおいて試金石のような扱いを受けているファクターであるので、一応考慮に入れざるを得ない。マスに受けたければマスと同じ感性を持て、とはかの藤子・F・不二雄御大の言である。

 実際のところ私自身は、映画評というのは短かろうと長かろうと、ネタバレを含もうと含まざると、本当ならば読んでいて面白いのが一番いいというスタンスであるが、インターネットに渡すショバ代としてのコンテンツたり得るためには、そう表立ってマスのことを蔑ろには出来ないものだ。私の一存で、読んでいて面白いのが一番、といったある種の売り上げ至上主義に走ってしまうのも、映画そのものに誠実ではない気がしてきた――というか、インターネットにそう突っ込まれても何ら反論できないな、と思った――のもある。

 また、映画評を書いてそれなりに話題性を持たせるためには、新作映画の批評なども行う必要がある。私は過去一度だけそれをやったが、これはかなり散々な経験となった。

 何しろ、きょうび映画館というのはどこにでもかしこにでもあるものではない。封切り館となれば尚更である。本邦の一般的な諸都市においては、都心部のミニシアターか、かなり郊外に位置するシネコン以外に選択肢がないというのもザラだろう。私の住む町も例外ではなく、私はバスと電車とまたバスを乗り継いでこの近辺では1軒だけになったシネコンに向かい、満額料金で映画を1本観る羽目になったのである。

 その結果、私は帰りの運賃を除けば素寒貧、全くのオケラと化し、飲み物やスナックすら買うことが出来ず、映画評を書くための手がかりになるパンフレットも買えないために、上映時間中瞬きすら惜しむようにして映画の1分1秒を記憶することに努める羽目になった。

 今思えば鑑賞中にメモくらい取れば良かったのかも知れないが、いくらスクリーンの光があるとはいえ暗い中で取ったメモが後から読めるとは限らず、携帯などを開くのは無論マナー違反になるため、こうするより他になかったのである。

 これはかなりつらい経験だった。言ってしまえば貶すためだけに観ている映画のために私は数千円を失い、書いた映画評は8400字以上の冗長記事になって、そしてそれほどの話題性はなかった(尤も、このページのコンテンツの中では有意にアクセス数が多い記事ではある)。

 私はこの映画評を書いた後で自問した。映画館に払う金というのは、その殆どが「映画館で映画を観る」という体験に対する対価ではないのか。2時間の上映中、飲み物もなく、帰ってからどんな風に感想をまとめるかだけを必死に考えながら、帰りのバスの時間に尻を焦がされながら観ている映画は、体験としてはあまりに貧しいものではなかったか。

 そもそもの話、私はあまり封切り映画に興味はない。私が好むタイプの映画というのは近年公開数が減ってきており、ビデオスルーになることのほうが多いのが実情だ。それに封切り映画の批評を書いてもそれほど話題性がないなら、尚更興味を持つ意味が薄いのである。近年の邦画には観るべきものは全くなく、私の住む田舎の町で上映されるような洋画も、ガキ好みのケレンをCGでベタベタに塗り固めただけの同工異曲に過ぎない。

 封切り映画に払う数千円があれば、近所のレンタルビデオ店で旧作を数十本借りられるのである。得るべき体験をスポイルしながら封切り映画を観るよりも、かつての話題作や映画史に残る名作、ビデオ直行便になったへなちょこ映画を好きなだけ繰り返し観られるほうがよっぽど有意義だと思うのは、私の心根が賤しいからばかりではあるまい。

 こうして限られた資金を有意義に使うべく、私の映画評は旧作に偏ることになったわけだが、今度は再びコンテンツとしての存在意義に疑問符がつくことになった。

 映画評は、それが新作だから意味をなす側面が少なからずある。批評や感想を数本読んでから、その映画を観るかどうか決める、という人も決して少なくはないはずだ。ましてや1本観るごとに数千円が飛ぶのなら尚更である。私だって出来ればそうしたい。

 対して、旧作の映画を借りる前に批評を読む、という人は殆どいないだろう。たかだかほんの数百円で借りられるのだから、映画評を読んで意志決定をするより先にいっそ観てしまったほうがよい。旧作映画を観る前に批評を読むような人は、おそらくその映画をあえて観たりはしない。

 つまるところ、旧作の映画評には「同じ映画を観た人が何を思ったかを知りたい」という下世話な野次馬根性的需要しかないのであって、その分インターネット事故のリスクが大きいのである。

 人は理不尽にも、自分と違う感想や解釈を目の当たりにすると、得てして腹が立つものだ。自分から探して読んでおいて「それは違う」と吹っ掛けてくるとは随分と虫のいい話もあったもんだが、実際のところ我々はインターネットにショバ代を払っているという意味で同類であるので、その辺りに拡張した自意識の履き違いがあるのも、致し方ないことである。

 先に書いたように、映画評を1本書くのもなかなかどうして難しい。ともすれば電子の海の彼方から、履き違えた自意識という浮遊機雷や誘導魚雷が流れ着かないとも限らない。かといって「どうせこれを読むのはこの映画を観た奴だろうから……」という姿勢を見せることは、私としては少し抵抗がある。事実上内輪ノリで回っているこのページに、別種とはいえ更なる内輪ノリを追加して内輪ノリの濃度を上げるのは心苦しいのだ。インターネットが明るく清潔なものへと変貌しようとしている今、内輪ノリは石持て追われる存在である。望むと望まざるとに関わらず、教条主義潔癖症は世界を席巻しつつあるのだ。

 ギターいじりも駄目、映画評も駄目、そこで私が思いついたのは、かつてのインターネットにいた雑文書き達をリスペクトし、時に拡張した自意識として自虐を入れながら、愚にもつかない雑文を書き連ねることであった。どのみち話題性が確保出来ないなら、私の生活の上で発生する些細な感情の機微を多少針小棒大に書いても誰も困りはしまい。この過程は最初の雑文に書いたので、今更長々と語ることはしない。

 実はこのような更新形態に着地したのは今年の4月のことなので、本当の意味ではまだ1周年すら迎えていないのだが、はてなダッシュボードを開いて開設年月日が目に入ってしまったのが運の尽き。私は何か書こうと思い立ってしまった。そのためにこよみ雑学も仕入れてしまったのだ。よって、今日の私は冒頭のこよみ雑学を披露した時点でかなり満足してしまっている。

 本来であれば、日付に執着せずとも人間は生きていける。少なくとも私はそうだ。日々更新される生活のタスクの前では日付など無意味である。ましてや根拠の薄弱な占星術六曜を意識することなど不要なのだ。生活は続くのである。逃げても逃げても、朝はこの窓にやってくるのである。親兄弟の誕生日すら覚えていないのも、そういう理由だということにしておこう。実を言えば自分の誕生日すら危うい。

 しかしながら、日付に執着するのがマスの行いというものである。繰り返すが、インターネットにショバ代を納める以上、マスの行いを通り一遍はなぞっておくべきだ。いくら社会不適合者とはいえ、別に好き好んで社会から落伍しているわけではない。勿論マスに受けたいと思っているのではないが、マスから排斥されたくもないのである。そうでなければ長々と5000字以上もぶち上げた意味がない。

 そんなわけで、3年目はこの殆どが蛇足で構成された冗長記事で幕を開けることになる。願わくば、3周年も無益に浪費したいものであるな。

石橋を渡る冒険主義

 基本に立ち返る。いい言葉である。

 我々はついつい基本をおろそかにして、痛い目に遭うのである。いわんや、私や諸兄らという荒涼たる砂漠の上に何かしらを立てようと思うのであれば、真っ先にやるべきことは基礎固めだ。エジプトはギザの大ピラミッドもサハラ砂漠の砂の上に鎮座しているわけではなく、元々あった岩盤をある程度整地し、その上に切り出した岩のブロックを積み上げて建築されていることが分かっている。

 つまり何が言いたいかというと、基礎をしっかりと固めた面積と、その上に積み上げられる事物の高さとは、概ね正比例するのである。高みを目指すなら、まずやるべきはしっかりと基礎を固めることなのだ。諸兄らもマインクラフトで無益に山をひとつ切り崩し、だだっ広い平地を作ったりしているだろう。同じことである。

 尤も、イマジネーションとクリエイティビティに難がある私や諸兄らのことであるので、平地に立ち並ぶのは極めて無個性なお豆腐建築ばかりであり、地方都市のベッドタウンのような有様になるのが関の山だ。そのうち、住処の山を追われたひつじさんやぶたさんやおおかみさんが化けてプレイヤーに復讐を仕掛けるであろう。

 令和中立mob合戦の様相を呈するゲームの話はさておき、我々は基礎・基本の大切さを勿論頭では理解しているというのに、それでも失敗するのだから始末に負えない。人生というクソゲーが所謂オワタ式になって久しい昨今、誰しもが失敗することに対しピリピリしているのにも関わらずである。

 さて、私は先日、かなり久しぶりに、車で自分ひとりのためだけに用事を足しに行ったのだった。具体的には古道具屋巡りである。古道具屋で自分の趣味やニーズに合致するものを探し当てた時の喜びはなかなか他では得がたい体験であり、往々にして節約にもなるので、私は時折このように古道具屋を巡らねばどうしようもなくなる程度には、古道具屋を覗くことを好む。

 古道具屋や中古楽器店をはしごしながら私が住んでいる町の反対側までやって来たところで、時計は午後1時を打っていた。そろそろ昼食を摂っておかないと、その後の予定に差し支える。というわけで私はラーメン屋に入ったのであった。

 それは近頃私の住む町にも勢力を拡大しつつある、所謂横浜家系と呼ばれる類いのラーメン屋だった。私が仙台で学生をやっていた頃、学校の近所に(やや特殊ではあったが)家系の系列に連なる類いのラーメン屋があり、そこに足繁く通っていたため勝手が分かっているというのも選択の決め手であった。私ほど堂に入った社会不適合者は、食券制の店でなければ安心して好きなものを注文することも出来ないのである。

 なお、例え食券制の店であっても、私が短いインターバルでやって来ては判で押したように毎度同じものを注文するために顔を覚えられてしまい、食券を出すより先に店員さんに「あっ、いつものやつですね」などと言われてしまったことがある。その際、私は恥ずかしさのあまりその店に3ヶ月もの間近付けなくなってしまった。これは提言なのだが、飲食店の運営に関わる人はあまり客の顔を覚えない方がいい。覚えていても、それを態度に表さずにいるべきである。さもなくば、太客をみすみす逃すことになるのだ。

 さて、私は食券を買い、席についてそれを店員さんに渡した。お味は?醤油で。濃さは?普通で。麺は?硬めで。うむ、ここまでは完璧な流れである。別段不自然ではない。通い慣れているように見えるとまではいかなくとも、最低限セオリーを知っているように見えるはずだ。しかしながら、私のささやかな「人間に擬態出来ている」という安心は、店員さんの次の一言でぶち壊されてしまった。

 大盛り無料ですが。

 お、お、お、大盛り?見れば壁には「ランチタイム大盛り無料」の文字が。しまった。見逃していた。

 アッ、エット、アノ、ジャア、ソノ、オオモリデオネガイシマス……。

 私は傍目にも哀れなほど動転していたと思う。いつものようにヘリウムガスを飲んだバルタン星人のような声になりながらやっとの思いで答え、私は深々と椅子に沈み込んだ。

 全く、私という輩はどうしてこうも想定外に弱いのだろう。何かあればすぐに鍍金が剥げてしまう。安ギターのパーツくらいすぐ鍍金が剥げる。どうしてラーメンの大盛りくらいスパッと頼めないのだろうか。ああ、井之頭五郎になりたい。出先で見つけた店に何の躊躇もなくガラリと入店し、好きなものを好きなように食べ、時にはぼやきながら、またある時には店主にアームロックをかけながら、昼間から銀座で寿司を食える生活を、そしてそれを是と出来る強さを持ちたい。

 私が私の生まれ出づる悩みについて煩悶していると、果たしてラーメンがやって来た。家系らしくこってりとしたスープに、太い麺が浮いている……否、それは浮いているのではなかった。麺はそのあまりの量にスープに沈みきれず、表層でとぐろを巻いていたのである。その異常な量こそが、この店の「大盛り」であった。

 昼時もやや過ぎ、腹はそれなりに減っていたとはいえ、これは今日の昼食に割り振られたキャパシティより明らかに多い。私は私の穀潰し度合いに関してはそれなりに自信を持っているが、うっかりサイドメニューのミニチャーシュー丼も注文してしまっていた。そして今私の目の前にあるのが、大量の麺と米というわけである。

 私は仕方なく、胃の容量を気にしながら、あるいは食べきれなかった場合どうなるかを想像して震えながら、その大量の麺と米を消費した。結論から言えばなんとか完食出来たのだが、スープにはほぼ手をつけられなかったし、食べ放題の米をもらうことなど出来るはずがなかった。私は頭が少しでも下を向いてしまえば吐きそうになるのをこらえながら店を後にした。完全に食べ過ぎである。

 初めて入る店だったのだから、冒険は禁物であった。注文時に流されず、「並盛りで」と言っておけば、勿論食べ過ぎることはなかったのである。しかしながら、私は別に冒険主義にかぶれたのではない。パニックになったのだ。パニックになって、愚かにも自ら墓穴をせっせと掘ったのである。

 私は失敗した。「初めて入る店では冒険しない」という基本中の基本をおろそかにしたためである。しかしながら、気が動転した状態で正しい選択を行える人が、一体この世にどれほどいるというのだろう。そこには確率論以上のものは横たわっていないのではないだろうか。確かに、二択問題を外すのは却って難しかろう。世の中の大抵の決断といのは、二択ではないから難しいのだ。だからといって、二択を当てるのが簡単だということにはなるまい。確率で言えば五分と五分であるのだ。

 ……かように「普通の人間はラーメン屋の注文ひとつでパニックになったりはしない」という大前提を無視したままごちゃごちゃと屁理屈をこねる私は、今後も洒落にならない失敗を犯し続けるのだろう。全くおかしくなっちゃいそうであるな。

 今後もし私のインターネット上のアクティビティが急に途絶えるようなことがあった時は、諸兄らは「ああ、フェータルな失敗を犯して東京湾にでも沈められたんだな」と理解していただければ概ね実態と相違ないものと思う。その際は私こと、哀れで愚かな鍍金細工のバルタン星人のことを思い出して、ちょっと涙してくれてもバチは当たらないのではないか。

汝深淵を覗く者は

 この度、私は生まれて初めて「金縛り」というものを経験したのである。

 金縛りというと、アレである。あの、眠っている内に気付けば体が動かなくなっていて、大抵足元から何かがやって来て足首を掴んだり、大胆にも胸に乗っかったりしてくるアレである。

 私はホラー小説を耽溺しクズホラー映画を愛憎し怪談を蒐集していたりするくせに、基本的には合理主義かつ懐疑主義であるので、そのようなファンタジックな体験談は話半分で聞いている。体が動かせなくなるのは眠りに落ちる時に生じる睡眠麻痺と呼ばれる一過性の生理現象であるし、何かしらがやって来るように思うのは入眠時幻覚と呼ばれる非常にリアルな夢である。科学である程度確かめられている現象として解釈出来ることを、わざわざウルトラCの理屈をこね回し、先祖だの水子だの地縛霊だのなんだのを引き合いに出して原因を探る意味などないのだ。

 と、ここまでは私の乏しくもゼロではない理性の上での話である。

 よく言われるように、理性と感情は別物であり、しかしながら矛盾もすれば両立もする。その線引きはファジーでまだらであり、何もかもきっぱりと白黒つけられる人間など存在し得ない。私も合理主義を標榜しておきながら、実際のところ、金縛りにかかっている内に覚えた感情として最も適切な表現は「恐怖」であった。

 その日、私は夜半を待たずに寝落ちしたのである。部屋の明かりは煌々と点いたままだったし、窓にカーテンすら引いていなかった。やっと尿意を覚えて起き上がったのが朝5時前だったと記憶している。

 当日は通院の予定があったとはいえ、いくらなんでも5時起きは早すぎる。ゆっくりと風呂に浸かってもまだ時間が余る。だいたい、ゆっくり入浴した後で病院に向かいたい人などいるだろうか。いやおるまい。そうなってしまえば、快適な気温の部屋で足を投げ出してのんびりしたいのが人間のサガである。ついでにアイスクリームなども欲しいところだ。いよいよ通院どころの騒ぎではない。

 トイレに行って部屋に戻ってきた私が選んだのは、無論二度寝であった。目覚まし時計は最初から余裕を見た時刻にセットしてある。

 そもそも私は目覚ましをセットした時刻の1時間ほど前には必ず目が覚めてしまう損な性分なのだが、そこで目覚まし時計を切り二度寝すると絶対に予定の時刻には起きられないので因果な話である。短い社会人生活を送っていた頃から、呆れるほどの正確さを以て、私の睡眠時間は1時間ずつ削られ続けてきたのだ。この場合もおそらくそうなるだろう、と思った私は、目覚ましを1時間遅くした。どうせ予約診療ではないのだ。1時間くらい遅れても何ら問題ない。

 カーテンを引き、布団に潜り込んで明かりを消す。こういう時ほど、遮光カーテンのありがたみを痛感することはない。さっと引くだけで擬似的な夜を作り出せる。私のような無職が、惰眠を貪るのが趣味になるのも無理もない話だろう。

 布団はまだ熱を帯びており、もう朝晩はかなり冷え込むトイレや廊下から戻ってきた私には少し温かすぎた。その中でしばらく右に左に寝返りを打っていたのだが、いよいよ耐えきれなくなって、左半身を下にした状態で左足を曲げ、足の裏を布団から出したその瞬間だった。

 何か甲高い金属音のような音が聞こえたかと思うと、私の体は一切の自由を失った。布団から飛び出した左足の裏だけが涼しい。恥ずかしながら、私が最初に疑ったのは脳梗塞など、そういう類いの疾患である。どうせ日頃の不養生が祟ったのだ。ああ、なんて呆気ない――。

 私はそう遠からぬうちに降りてくるはずの死の帳を待ったが、一向にそれはやってこなかった。代わりに意識だけが鋭敏になっていくのが分かる。体勢上、目を開いたとして見えるものはベッドの左隣に隣接する壁だけであるはずなのだが、果たして私の意識は、ベッドの下からぬぅっと首を伸ばし、布団から突き出た私の左足を凝視する、真っ黒でつるりとした頭の存在を知覚した。

 私はそれを、黒く塗られたプラスチックスプーンのようだ、と思った。諸兄らも、模型趣味の人が塗料の試し塗りとして、プラスチックスプーンの背に塗装しているのを見たことはないだろうか?ああやって黒く塗られたスプーンのようにのっぺらぼうの頭が、ベッドの下から伸びているのである。それが、私の左足のすぐ隣にあるのだ。

 私は左足を引っ込めようと躍起になったが、体はちっとも言うことを聞かない。この段に至って初めて、私はこれが所謂「金縛り」という現象であることに思い至った。

 ほぉー、これがあの金縛りというやつか。本当に体が動かせなくなるんだな。私の眠りに落ちかけていた理性が「金縛り」という単語に反応してモソモソと動き出し、寝ぼけ眼でそんなのんきなことを抜かしている一方で、感情は理性の肩をガクガク揺さぶりながら出川哲朗ばりに「ヤバいよヤバいよ」と繰り返していた。何がヤバいのかといえば、勿論私の左足の裏を凝視する黒い存在である。見ていないのに存在が分かる。悪意を左足の裏で感じる。早く足を布団の中に引き戻さなくてはならないのだ。

 感情は矢継ぎ早にそれらのことを口にする。起き抜けの理性は頭をグワングワン揺らされて若干気持ち悪くなっているので、それらに合理的な反論をする余地がない。下手に口を開けば舌を噛みそうなのだ。その間にも感情はヒートアップしていく。

 いよいよ黒い存在はその頭を垂れて、私の足の裏を舐め回さん勢いである。感情は恐怖のあまり卒倒した。すると、肩を掴んだ腕から解放された理性が、やっとものを言えるようになったのである。理性は一通り、私が上述したようなことを述べた。

 私の体は動き出した。頭は鮮明な夢を見た直後の、実記憶と夢の記憶が渾然となっている状態に近い。左足を布団に引っ込め、寝返りを打って足元を見たが、黒いスプーンは勿論その存在の痕跡すらもない。

 感情も落ち着かせることに成功した私は再び布団を肩まで被り、眠りを貪った。私の理性も感情も、この度は静かに眠りに落ちていった。それを叩き壊したのは、目覚まし時計のベルである。私は布団の中から腕を伸ばしてそれを止め、1時間後にセットし直し、三たび寝た。

 私は都合2時間長く寝たことになるが、そのことに気付くのは再び目覚まし時計に叩き起こされ、時刻を確認したときであった。病院は午前の診療時間ギリギリに滑り込みになってしまい、焦りのあまり保険証を提出し忘れ、明細書を受け取らずに帰ろうとし、処方薬の代金を払わずに薬局を出そうになるなど、その日は細かいポカを山ほど積み上げることになってしまった。

 何もかもが、あの黒スプーン野郎のせいである。あのスプーンの他に誰が責められようか。必死に考えても自分の顔しか出てこないので、スプーンのせいにしなければやっていられない。感情がそう訴えている。理性の方は勿論スプーンのせいではないと知っているが、事実を指摘すれば私自身を責めることになるので感情と一緒になってそう訴えている。こうして金縛りは、先祖だの水子だの地縛霊だのスプーンだのといった、大方体験者の幻覚の中にしか存在していない、ある意味で都合の良い存在に罪科を押し付けて人口に膾炙していくのである。

 私は諸兄らに言いたい。そうやって都合よく濡れ衣を着させ続けていると、そのうち本当に呪われてしまいますよと。本邦は言霊の国である。言葉の力は恐ろしいのである。いわんや私や諸兄らが太刀打ち出来るものではない。「存在しないもの」の上にむやみやたらに積み上げられた罪科は、いずれ崩れて我々の上に降り注いでくることだろう。

 人を呪わば穴二つ。その内訳は勿論、私が入る穴と、諸兄らが落ちる穴である。穴の底で、待ってます――。

無敵のギター弾く人(または、腐敗卵)

 突然だが、私は自分のことをあまり美化しない。

 こう書いてしまうと、諸兄らはきっと首を捻ることだろう。「自分を美化しない」と言い切る手合いは、大抵「自分が定義する自分」と「実像の自分」との間にあるギャップに気付けないほどの大馬鹿野郎であることが殆どだからだ。

 それであれば、いっそ自分を美化しきっている方がよっぽどよい。美化された自分という自己認識があればこそ、人はその姿を保つ、あるいは近付かんとして努力をするのである。そういう一種のノブレス・オブリージュがあってこそ、人は真に社会的存在たり得るのだ。著名人が社会奉仕をするのも、お笑い芸人が何かにつけ苦労話をするのも、インターネット上の漫画絵描きがすぐに「描かないと人権がなくなる」などとほざくのもその一環であり、詰まるところ第三身分、プロレタリア、消費者、底辺、諸兄ら、などと好きな言葉で呼べばよいが、そのようにノブレスではない者は「はっは、抜かしおる」と鼻でもほじりながら肘枕で寝転がっておればよいのである。

 その点、自分を美化しない人間は厄介である。何といっても担保される自己認識がないので、責務もなければ上昇志向もない。いわば無敵の人である。

 このように、私があまりに上昇志向を捨てきっているのは、何度か書いているように大部分は育ちのせいである。

 私は両親や親戚縁者など、本来であれば身近であるはずの大人たちから、努力そのものを褒められた記憶がない。当世風に言えば、褒められが発生するのは常に「成果」があった時だけであり、どれほど努力しても「成果」が伴わなければ必ず怒られが発生していた。更には両親の教育方針として、例え「成果」が伴ったとて、努力に報酬が支払われることはなかったのである。

 一般によく見られる話のように、テストで何点以上取ればお小遣いが貰えるとか、欲しかったものをひとつ買ってもらえるとかいった現物報酬は、規模の大小を問わず、我が家には一切発生していなかった。無論、勉強は小遣いや物欲を満たすためにするものではない。勉強は自分自身のためにすることであって、そこに外的動機付けを必要とするのはおかしな話である。それは全く正論であるし、その厳しくも公正な姿勢を20年弱に亘って貫いた両親の胆力には賞賛を送るものであるが、それはそれとして、一般にガキというものは、そこらの犬畜生よりも堪え性において劣る存在だということを、どうも我が親愛なる両親は知らなかったらしい。

 私は何度となく、ありとあらゆる交渉材料を用いて月々の小遣いアップを目論んだものだが、それらは両親という大蔵省の前では全て蟷螂の斧に過ぎなかった。

 努力しようがしまいが給料が変わらないとなれば、人は一体どのように振る舞うか?勿論、これは歴史が証明していることであるのでここでは子細を述べないが、それと全く同じ現象が我が家でも起こっていた。両親は私が可愛いあまり、私が彼らの子供である以前に人間である事を失念していたのである。

 共産主義はいつだって正しい。間違っているのは常に人間である。だから、人類は共産主義の敵なのである。共産主義の理想に殉じたければ、人類を敵に回して闘争するより他にないのである。かといって共産主義が殉死者に微笑み返してくれることなどない。悲しいなあ。

 さて、以上が今回の枕だが、既に冗長であるし、なんだかひがみっぽい。ちなみに、私が嫌いな言葉は「自己責任」である。言うまでもないが、こちらには常に自己責任からの自己批判からの自己逮捕からの自己刑死をする覚悟があるのだ。そこな並み居る凡骨どもとは気位が違う。共産主義も喜んで私を手駒にすることだろう。

 この度、ずっと以前に作ったギターを押し入れから引っ張り出してきたのだ。

 この雑文置き場でしか私を知らない諸兄ら(などというものが殆ど存在していないのは勿論知っているが、存在していないからといって説明を省けばそれは内輪ネタに伍してしまうのだぞ)には初耳かも知れないが、実は私はエレキギターエレキベースを一通り製作出来るだけの教育と実習を受けている。それらの内容には大抵のリペア作業も含まれており、自宅にそれが出来るだけの設備や工具を買い集めることをしていたりもする。このギターは、その教育の過程で私が作った十数本の内の1本だ。

 ここで少しシビアな話をすれば、実際のところ、自分で作ったギターが使い物になることはそう多くない。きちんとしたテンプレートと工作機械を使い、規格立てて作業を行える環境であればまだしも、実習の一環なのだから、大体は毎回のように異なった仕様のギターを、基本的な工作機械と手工具で製作することになる。

 ギターというのは事実上精密工芸品であり、その設計も、一部でも仕様が異なれば全体の改設計を余儀なくされる場合もある程度には繊細である。つまり、同じギターという楽器を作っているようでも、要求されるスキルは毎回多少なり異なるのだ。

 これでは、何本何本も全く同じギターを作る、というちょっと現実的でない選択肢以外で、年限の限られた実習期間のうちに技術を習熟することは望めない。また、基本的にたったひとりの手で製作しているため、クオリティの向上にも限度がある。提出の締め切りだって設定されているのだ。勿論、作業自体に得手不得手の濃淡も存在する。

 その結果、大方の場合において出来上がってくるのは、ギターの形をした死んだ木なのである。素材にはきょうび個人で取引することは難しくなってしまった木材なども含まれていたりするのだが、彼らがその本懐を遂げているとは言いがたい。木材マニアが見れば泣いて地団駄を踏み、ついでに馬謖もKILLすることだろう。諸葛亮だって馬謖をKILLするときは半笑いだったと思う。

 しかしながら、本当に時折(工作機械に全面的に頼り製作の手間を極力惜しむという私の巧みな設計手腕によって)、少々まともな出来になるギターがある。それがこのギターだったというわけだ。

 ここは読み飛ばして貰っても構わないが、ちょっとギターに詳しい諸兄らのためプレイアビリティに関わる部分だけ説明してみると、メイプル平行段付き、フェンダーで言うところのCグリップのデタッチャブルネックに9″Rのロングスケール22F指板、フレットはミディアムジャンボでボディ材はマホガニー極薄塗装、ブリッジはハードテイルでPUはハム2発、という完全にヘヴィ系の音楽をやる仕様になっている。

 このギター、提出後の評価も相応にめでたかったと記憶している。実際ボディシェイプやプレイアビリティの高さも気に入っており、機会があればいずれ同じような仕様でもう1本……と思っているギターのうちのひとつだ。

 転居などもありしまい込んでいたのだが、ひょんなことから存在を思い出し、埃と黴にまみれたギターケースの中から引っ張り出したのである。先述のように塗装が薄いため、ギターケースを覆う黴に気付いた時はかなり焦ったが、内側には侵食しておらず一安心であった。ギターケースは無論捨てた。

 さて、いざ調整をして弾いてみると……これが思いの外良くはないのである。弦が死んでいるせいかと思い新しいものに張り替えたが、それでもだめなのである。様々試した結果、これはフレットのすり合わせが必要だという結論に達した。

 フレットのすり合わせという作業がどのようなものかは諸兄らが各位で検索でもしてもらうとして、これはあまり簡単な作業とは言えない。手間もかかるし、やり直しのきかないシビアな作業である。こればかりは経験値がものを言う。

 私にも一応、経験値というものは存在している。この数年、すり合わせを行うための工具や環境も整えてきた。万一やり過ぎてしまっても、フレットを打ち直すことが出来る環境すらある。

 それらを十分に勘案した結果、私は素直に外注することにした。つまり、リペアショップに持ち込むことにしたのである。

 諸兄らは問うだろう。何故己で落とし前をつけぬのかと。それはそれは口汚く罵るのだろうね、この私を。分かってますよ。

 何故自分でやらないかといえば、それはひとえに私が自分のことを美化せぬ無敵の人だからである。私は己の知らざると、足らざるを知っている。具体的には、慎重さと丁寧さと頭の中身が足りていない。うるさいよ。

 勿論、かつてこのギターを作ったのも知らぬ足らぬの私である。更には口も減らぬので三重苦である。さて、物作りなどをする諸兄らにはまだ理解の余地が残されているものと信じるが、物作りの現場において、往々にして最も信用ならぬのは自分自身である。ギター作りの三重苦を抱えた私が作ったギターなど、到底信じられたものではない。先述した仕様ですら、本当に正しいかどうか分からないのである。なお、少なくとも塗装の薄さだけは事実である。レンチを滑らせて目立つ傷をつけたからだ。

 私が贔屓にしているリペアショップはそう遠くなく、アクセスも悪くない。技術も確かだと知っている。そして、諸兄らが見ているインターネットでは到底言えないような、まさに価格破壊と言って差し支えない工賃で大抵の作業を引き受けてくれることも。

 私はリペアショップに直行した。リペアマンにギターを引き渡す際、これを自分が作ったという事実は伏せておいた。どのような形であれ、軽蔑を差し向けられるのは好まない。私がギター作りを学んでおきながら、すり合わせひとつ面倒くさがってやらないような輩なのだという軽蔑に、私は耐えられない。事実の指摘は時に人を傷付けるのだぞ。諸兄らは知らないかもしれないが。

 すり合わせは1晩で済んだ。リペアショップから返ってきたギターは、もう見違えたように弾きやすいものとなった。

 何においてもまず頼るべきはプロの腕である。私はプロになりそこなった、腐乱した卵に過ぎないのだから。腕が(頭も)足りないこと自体は、決して恥ずかしいことではないはずだ。腹を括って、素直に他者を頼ればよいのである。諸兄らもくだらない意地を張っている暇があるなら、さっさと開き直って楽になった方がよい。私はそうした。

 自分を美化せずに生きることの、何と都合のよいことか。ついた嘘を覚えておく必要こそあれど、その他は全く気楽なものだ。尤も、その嘘の重さが私を苛むことも多少なりあるのだが。諸兄らも、是非この底辺の気楽さを体験してみて欲しい。

台所の宇宙

 今日、畑をしまった。

 我が家では猫の額ほどの裏庭に、これまた鼠の額ほどの菜園を作って野菜を育てているのだが、天気予報が気温の急落を告げたため、今年の野菜たちを始末することにしたのである。

 思えば今年は我が家史上最も収穫量に恵まれた年であった。初夏にはサラダカブや二十日大根などがゴロゴロと穫れたし、盆前にはハラペーニョとナスがなり始め、盆過ぎにはイタリアントマトが大量に赤い実をつけた。ミツバと大葉、バジルとパセリは時期を問わず、使いたい時にすぐもいで使えたため大変重宝した。

 一方でミニトマトと中玉トマトはふるわなかったが、生育に肝心な時期と生活が慌ただしかった時期とが重なって適切な管理が出来なかったためであり、こればかりは仕方がなかったと言える。ミニトマトで作るセミドライトマトのオリーブ油漬けが作れなかったのは残念ではあるが。

 さて、畑をしまうにしても、ただ引っこ抜いて捨てればよいというものではない。ナスもトマトもハラペーニョも鈴なり状態であるし、バジルはもう茂るにいいだけ茂っている。これらを食べないという手はない。

 まずバジルである。食用に向かない硬い葉や茎、花茎などを取り除いたのち、片っ端からミキサーに放り込んでパルメザンチーズとオリーブオイルとニンニクと松の実を突っ込んでぶん回し、所謂ジェノバソースを作る。大きめの瓶で2本の量になった。冷蔵庫に入れておけばしばらく保つので、これで食べたい時にジェノベーゼが食べられるという寸法である。ミニトマトとプロセスチーズを豚ロースの薄切り肉で巻いて焼いたものにかけてもうまい。

 次に取りかかったのはハラペーニョだ。私が推す消費方法は湯むきしたトマトとニンニク・タマネギと合わせて作るサルサなのだが、そう毎日サルサをタコスにかけてテキーラを流し込み、ギターを弾いている訳にもいかない。我々は陽気なメキシコ人ではないのである。

 ところで、我々がメキシコ人と言って思い出すのはあのつばの広くて尖った麦わら帽、ソンブレロを被ったステロタイプであるが、実はソンブレロはメキシコの人々にとっても古臭いものであって、実際にはパーティグッズと同格の扱いをされているという。本邦でいうところのちょんまげのヅラのようなものであるな。メキシカン農場主はソンブレロを被ったりなどしないのである。我々も紋付袴にちょんまげで出社したりはしない。勿論その自由はあるが、翌日から机はなくなることだろう。自由には責任が伴うのだぞ、グリンゴ

 話を戻そう。辛味の弱い品種であるとは言っても、ハラペーニョは立派な唐辛子である。私自身はそのあまりの気高さゆえ、時折内省が行きすぎたあまり自己総括が始まってしまうことがよくあり、そういった場合に一種の自傷行為として辛いものを貪るように食べたくなることがあるのだが、同居する家族はそうでもないため、ハラペーニョ単体を食べる料理はちょっと出すことが出来ない。よって、何に合わせてもいいようにピクルドペッパーを仕込むことにした。なにせ、2本でも十分な量のサルサが作れる唐辛子が20本近くも穫れたのだ。10倍だぞ10倍。

 ハラペーニョはヘタを丁寧にそぎ落とし、さっと湯がいてから爪楊枝で穴を開け、保存瓶に入れて合わせ酢を注ぐ。酢とカプサイシンの効果によって、ちょっとびっくりするくらい日持ちするピクルドペッパーが出来上がる。今回は合わせ酢には極力香り付けを控えたので、漬け上がれば肉に合わせてよし、スパゲッティと合わせてよし、勿論ピザやホットドッグに乗せてよしの万能リフレッシュとなる。

 残すはナスである。大小様々なサイズが15本ばかりあったが、今回は大ぶりなものを選んで夕食のサラダにすることにした。皮を縞目に剥き、適当な厚みの輪切りにしてさっと油通ししたナスを、刻んだタマネギとバジル、酢とオリーブ油などで和えて冷やして食べる。これがまたうまいのである。

 なにせさっきまで土から生えていたのだから、ナスは新鮮そのものである。揚げ油に入れると、その実の緑色がもやの晴れるように濃くなる。その翡翠の如き色があまりに美しく見事であるので、この瞬間の感動はちょっと筆舌に尽くしがたい。油を切り、調味料と合わせると、酢の力で皮の色が鮮やかな茄子紺へと変わり、流れ出た色でタマネギが淡く薄紫に染まる。そこにバジルの濃い緑が散るのである。

 このサラダは、私が作ってきた料理の中でも格段に色の美しいもののひとつだと思う。完成した姿が美しい料理というのは数多くあるが、作っている最中の姿が最も美しい料理というのはなかなか珍しいのではないだろうか。

 私は別に自然派だとか印象派だとかいった手合いの人間ではないが、植物や、大局的に言えば自然が見せる色彩の美しさに時折はっとさせられることがある。また、それそのものが美しいことも無論あるが、人の手が加えらた時に初めて顔を覗かせる美しさというのも確かに存在しているだろうと思うのだ。

 それらの美について考える時、私は究極的に、人間に生まれついたことを感謝する。人類が根源的に持つ、美という得体の知れぬものへの探究心が自身にも流れていたことを感謝する。

 「例え世界が滅んだとて、人間は美を求め、美しいものを作ろうとするはずだ」とは『マッドマックス』を撮ったジョージ・ミラーの言であるが、この盲目的とすら言えかねない人類への賛歌を、私はナスを食べながら実感するのだ。かたや映画であり、かたや台所での一幕であって規模感はまるで違うが、こうした精神的、もはや霊的といってもよい、突然もたらされる感動という現象そのものは全く同じである。

 そしてそういった感動に自覚的であればこそ、世界は我々に長い腕を伸ばして、その内幕を見せてくれるのではないかと思う。美は感動によって見いだされ、そして感動が色褪せても美そのものは不変であると私は信じる。感動をもって世界を解釈することで、我々の眼前には無限の精神の沃野が広がるのである。

 さて、ある程度消費したとはいえ、残りのナスと真っ赤に熟れたハラペーニョ、十数個のトマト達はまだ台所に転がっている。トマトは加熱調理用の品種であるので、すり潰してケチャップを作る予定である。前回トマトを収穫した際に作ったのだが、これが本当にうまいのだ。このケチャップを用意し、卵を焼き、あとはソーセージなどを温めパンを軽くトーストすれば、他にはもう何もいらない食事が出来上がる。あまりにうまいので、一瓶空けるのに数日しかかからなかった。

 感動というのはそこここに物言わず転がっている。または物陰に隠れている。それを拾って集めることが出来るのは、我々が美を追い求め続ける人間だからである。願わくば、それに対して真摯であり続けたいものだ。