雑記日記

概ね無職。

2020/12/13の日記

10時頃起床。

起きてすぐギターとマイキングの練習。45分ほどで終わる。

 

とにかく無気力になっていることに気付く。思い返せば昨日の夜から既にだめになりつつあった気がする。何をやっていても面白くない。

 

12時に昼食をとる。味気ない。これは割と重症だぞ、と覚悟を決める。

 

だめになっているときは何をやってもだめなので、とりあえずこれ以上容態が悪化しないように買い物に出る。少なくとも外の空気に触れるだけなら悪化はしないので。

 

百均やホームセンターや家具屋などでとりとめも無い買い物。電動リクライニングソファというものを体感してみたりなどする。

 

帰宅したのは5時頃。夕食の準備をし、食べ、片付けする。

ぼーっとテレビを観て時間を潰してしまう。

普段はテレビなんてあまり観ないので、確実に調子が悪くなっている証拠なのだが、腹がくちくなっていたのと暖かい部屋にいたのとでうっかり調子が悪くなっていることを失念してしまっていた。

 

22時から友人達とロケットリーグ。

普段ならこういう場合は早めに切り上げたりして、友人達に迷惑のかからないようにするのだが、前述のようにうっかり失念していたのでそのうちすっかり鬱のスイッチが入る。

なんというかこう、味気ない、とにかく徒労のような気がしてならない。普段なら絶対に考えない、「この時間を何か他のことに割けないのか」ということを何度も考えてしまった。結局何かやることがあったとて、無気力なのは同じだし、捗らないのも、自分の技量の無さに反吐が出そうになるのも同じなので、「他に何か~」と思うだけ無駄なのだが、心が思いたがっているので仕方ない部分がある。

 

自分の感情のコントロールはもう長いことまともに出来ていない。むしろ、コントロールできていたことがないような気すらしてきた。

自分の感情がコントロールできなくなると他者に迷惑をかけると思っているので、コントロールできなくなってしまうような情報は遮断するというのが経験則上の対症療法だ。

だが、オンラインゲームをプレイしたり、絵を描いたり、文を書いたりすると、嫌でも他人との力量差を目の当たりにする。

この力量差こそがストレスそのもので、感情の溜め池に大量に土砂が投入される。そして力量差を埋めるための「努力」というものが第二のストレスで、こちらは大量の泥水だ。

当然の如く感情の溜め池は決壊し、歯止めが利かなくなる。

 

無職で時間が余っているくせに、ギターも上達しない、作曲も出来ない、絵も殆ど描けない、挙げ句の果てにはゲームもうまくない。何ひとつものに出来ないんだなあと思うなどした。何もやろうとしてないんだから当然だ。友人達はみんな務め人で、僕よりも自由になる時間は少ないはずなのに、結果としては僕だけが何も出来ないという事実に今更ながら気付いて愕然とした。

何かをものにすることが、今までの僕に出来たんだろうか?今までの人生の中で、何かひとつでも違えば、何かをものに出来ただろうか?何かひとつ我慢していれば違ったか?何かひとつ強い志があれば違ったか?

僕にはもう分からない。ただ、その結果として、何も残っていない僕がここに存在しているということを知っているだけだ。

 

「若いんだから」とか、「何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない」とか言ってくる人は本当に嫌いだ。

若いからと言って赤ん坊に社会が回せるのか。

伊能忠敬が測量の旅に出たのは55歳だったが(彼らは例として伊能忠敬を引くのが本当に好きだ)、偉人達に習って行動を起こすなら、我々はキリストに習って30歳で刑死し、その後復活しなければならないのじゃないか。

そういった歴史上の特異点を例えに出されても、何も励まされない。僕の心はより頑なに、冷たくなるだけだ。

僕はもう"終わっている"のであって、それ以上でもそれ以下でもない。何も希望はないし、この先世界が良くなるとはこれっぽっちも思っていない。ただ、誰かに許されて生きているだけだ。その誰かが僕ではない誰かだから、まだ死ねないだけだ。そして、それは守るべき関係でもない。守られているのは僕だ。僕には失うものも、守るべきものも何もない。僕が誰かの「失いたくないもの」としてラベリングされているのを痛いほど感じるだけだ。そのラベルが重すぎて、僕はいつも潰れてしまいそうになっている。

死んだら楽になるんだろうか。死んだら毎日楽しいだろうか。分からない。死んだら楽になったり、楽しかったりするならきっとみんな死ぬだろうな。だからきっと、死では楽しくなれないんだと思う。

 

本日のBGM…The Police - Message In A Bottle

"俺は世界中にSOSを送っている 誰か拾い上げてくれ 瓶の中のメッセージを”