雑記日記

概ね無職。

怪談への憧憬

昔から怪談が好きだった。

そう書いておきながら意外なようだが、私は生来のビビリである。

小学校を出る頃まで、家に誰もいなければトイレのドアは閉じられなかったし、通っていた学童保育所のトイレが古く、戸板の木目が顔のように見えて気持ち悪く思ったのを覚えている。また、昼下がりより後の学校のトイレでは用が足せなかった。ひとえに夕闇が迫り、薄暗く不気味だからである。なんだかトイレのことばかり書いているな。それくらい、子供心にトイレというのは得体の知れない場所だったのである。

また私の父は当時、所謂管理職と呼ばれる社会的地位にあり、そのため遅くまで残っていた職場で妙な体験をした……という話を(よりにもよって逃げ場のない朝の食卓で)たくさん聞かされながら育ったことも、私を立派な骨なしチキンに仕立てることに一役買っていたことと思う。あとは衣をつけて揚げてもらうだけで、子供から老人まで大人気のファストフードの出来上がりだ。

そんな私が怪談を偏愛するようになったのは、ひとえに活字中毒のせいである。

家にも学級文庫にも読む本がなくなり、図書室でなんとなく敬遠していた怪談本を手に取ったのが運の尽きであった。ページを繰る手を止められなくなる、という体験をしたのはあれが最初だったように思う。あっという間に読み終えてしまい(昔から本を読むのだけは速かった)、案の定その夜私はトイレに行けなかった。

そんな戦慄でも徐々に慣れというのは生まれてしまうもので、もっと怖い怪談を求めて小学生だった私が買ったのは、ティーンズ系雑誌の怪談ムックペーパーバックだった。これが当時の私には本当に怖くて、読んでは眠れなくなり、また読んではシャワーを浴びられなくなり、またまた読んではトイレに行けず小便を漏らしたりした。あまりにも怖くて、その本が入った本棚を目に入れることすら避けていたほどである。

しかしそのうちに手が伸びて、また読んでしまうのだから恐ろしい。好奇心は猫とクソガキを殺すのである。実際に私はまったくの好奇心のせいで死にかけたことがあるが、それはこの文章には一切関係ないので割愛する。ちなみにこの本は、あまりに弊害が大きいと判断した母が捨ててしまった。よって私はこの本を読み終えていない。

やがて中学生になった私は、小説の体裁になった怪談、所謂ホラー小説を読むようになった。洋の東西、新旧を問わず、怪談と名がつけばこぞって読んだ。インターネット上で怪談話を探して読むようになったのもこの頃である。相変わらず夜トイレに行けなくなったが、流石に小便を漏らすことはなかった。

高校生くらいで交友関係が広がり出すと、私は誰とはなく「怖い話知らない?」と尋ねて回っていた。自分で取材するようにまでなっていたのである。また、そうやって仕入れた怪談を披露することにも興味を覚えた。私の声はぼそぼそとして聞き取りづらいが、それが怪談を語るのには適しているのである。友人達は皆(お世辞混じりで)怖がってくれたため、私も気持ちが良かった。

そして怪談というのは不思議なもので、怖い話をこちらが出せば出すほど、相手も「もっと怖い話をしてやろう」ととっておきの話を出してくれるのである。その中には時折本当に独創的で怖い話が紛れ込んでいることがあり、そういう話を聞けた場合は儲けものであった。この射幸心を煽るシステムによって、私は完全に怪談マニアになってしまったのである。

ホラー作家と呼ばれる人達は存外、こうして怪談話を集めていた経験があったりするものである。私も素養としては十分だと思うのだが、生憎ホラー作家になる予定は今のところないし、筆力も足りていない。聴き溜め書き溜めた話はそれなりにあるのだが、このご時世で披露する場所がなくモヤモヤしている。よって、ここに私が聞いた話を中心に書いてみようと思う。

ここまでが今日の前置きである。既に冗長。

 

 

『深夜のトイレ』

専門学校時代、女の先輩が酒の席で語ってくれた話である。

彼女は便座の上で唸っていた。時刻は深夜1時過ぎ。季節は冬の初めの頃だったと聞いている。そもそも胃腸が弱い彼女は、ことあるごとに腹を壊し、トイレにこもりきりになることが多々あった。この日はまだ冬になって間もないせいか、油断して腹を出したまま寝てしまい、夜中に腹痛で目覚め、寝ぼけ眼を擦りながらトイレに入ったのだという。私は「ガキかよ」と言った。

腹が冷えて起こる腹痛というのは、往々にしてしぶといものである。腹が温まらないとなかなか消えてくれない。中身を出せばいい、という単純な話ではないので、彼女も長期戦を覚悟して便座に座ったのだという。

やっと腹痛がいくらか治まり、便意が消えたため、彼女はトイレットペーパーを取って尻を拭こうと便座からやや腰を上げた。前傾姿勢のまま、まったく何の気なしに、太ももの間から自分の尻のほうをちらっと見たのだという。

そこには当たり前のように便座の縁があり、更にその向こうに顔があった。ちょうど便器の中から頭を突き出すようにして、人の顔があったのだという。やや顎を上げ、天井を見上げるような格好だった。

 

「ウッソだァ」と私は言った。「先輩、どうせ自分の下の毛を見間違えたんでしょ。寝ぼけてたんですよ」酒の席とはいえ、下の毛のことに執着する己のスケベエ心に呆れる。

しかし先輩は首を振った。「あれは絶対に顔だったよ。鼻もあったし、第一目が合ったのよ、あたし」

彼女は"それ"と目が合った途端弾かれるように顔を上げ、そのまま尻を拭き、すぐに立ち上がって振り返ってみたという。

便器の中には汚物と紙以外何も浮いていなかった。

「あれがなんなのかは分かんないけど、たぶん女だったと思うな。黒髪の。だって私の毛、あんなにストレートじゃないもん」

私は先輩の下の毛事情が聞けただけでも満足していた。

 

ルームシェア

この話もまた、専門学校時代の先輩が語ってくれたものである。

先輩は当時、もう1人の先輩と共同で2LDKの物件を借り、ルームシェアをしていた。貧乏な学生のことである。家賃負担が軽くなるのにも関わらず、駅に近く、それなりに広い物件に、共同とはいえ住むことが出来るのは、かなりのメリットだったという。

「それに、男2人の気ままな暮らしやったしな」

同じ学校に通っている上に、彼らはアルバイト先も同じだった。同じような生活サイクルのため、却ってお互いの生活を尊重出来るようになったという。それは例えば、冷蔵庫の食品に関してもそうだった。月初めに当月分の食費を予め折半で共有の財布に入れておき、買い物はそれですることになっていた。野菜や常備食の類いは、使った者が補充しておく。自分しか食べないもの、または相手に食べられたくないものは自分の財布で買い、名前を書いて冷蔵庫に入れておく。それが彼らが共同生活をする上で決めた約束だった。

 

彼が異変に気付いたのは、そんな共同生活が2年目の夏に入ってからのことだった。

ある日、アルバイトを終えて彼がアパートに帰宅すると、玄関を入ってすぐの台所の床に、何かが落っこちていた。黒光りするそれを一瞥した彼は最初ゴキブリかと思い、かなり肝を冷やしたそうだが、ゴキブリにしてはやたらと大きいし、第一動かない。

彼が近づいて改めると、それは1本のナスだった。まだ真新しく、ヘタの縁が尖った新鮮そうなナスだったという。

彼は咄嗟に「買い物袋からこぼれたんやな」と思った。以前にも買い物袋から落っこちた缶詰が、しばらく台所の隅で忘れられていたことがあったのだという。それが今回はナスだっただけの話だ。おそらく彼の帰宅より先に、同居人が買ってきたものだろう。彼はナスを丁寧にラップでくるみ、冷蔵庫に入れた。

その日の食事当番は彼だったので、そのナスを使ってごま和えを作ったという。

2度目の異変は、しばらく経ってから起こった。

「ナスの出盛りは過ぎてた思うから、秋か冬のことやったろうなあ」

その日、アルバイトで遅番だった彼は、日付が変わってからやっと帰宅した。玄関の鍵を開け、台所の明かりをつける。すると、床の上にそれは落ちていた。

「それがまたナスやったんよ。ピカピカの。たった今畑からもいできたみたいな」

彼はアルバイトで疲れ切っていたが、「またか…」と思いながらも、そのナスを拾い上げ、ラップでくるんで冷蔵庫に入れた。明日起きたら、同居人に文句のひとつでも言ったらんと……と心に決めながら。

しかしながら翌朝、疲れのためか寝坊した彼が起きた時には既に同居人はいなかった。めぼしい食材が尽きていたこともあり、彼は再びナスを調理して食べ、午後の授業から学校に出て、そのままアルバイトに出た。帰宅も遅く、この日、同居人と顔を合わすことはついになかったという。

ナスのことを言いそびれたまま、彼は次第にそのことを忘れていった。そうこうしている間に学校は冬休みに入り、2人は予定を合わせて帰省した。どちらか1人だけが家にいると、ルームシェアの恩恵が薄くなるからである。

冬休みが終わる前日、2人は空港で落ち合い、そのままアパートへと帰宅した。

「その時には、ちょっと変なことがあったことなんてもう忘れとった。俺は実家の居心地があんまり良くなくて、また親元から離れられてほっとしとったのもあったかも知れん」

アパートに帰り着いたのはすっかり暗くなってからだったという。鍵を開け、玄関扉を開くと、あの賃貸物件特有の臭いに加えて、ふっと悪臭が鼻をかすめた。

「真っ先に考えたんは、部屋の中で何かが死んどる――ってことやね。そんな漫画読んだばっかりやったから、影響されたんかも知れん」

見ると、隣の同居人も怪訝そうな顔をしている。「臭う、よな」彼の問いに、同居人も頷いた。覚悟を決め、台所の明かりをつける。蛍光灯の無機質な明かりに照らされた台所は、薄く埃を被っているだけで、何の異常もなかった。

彼が念のため食器棚や冷蔵庫を改めていると、リビングのほうから同居人の「うわっ」という短い叫びが聞こえた。

「なんや。どうしたんや」

「……これ」

同居人が指差したのは、彼らが普段食事を摂るのに使っていた座卓だった。

その上には、腐ってドロドロに溶けたナスが4本乗っていた。

 

* * *

「先輩、そこにまだ住んでるんですか?」私が問うと、彼はけろっとした顔で「住んどるよ」と答えた。

「絶対ヤバいっすよその部屋。なんかいますよ」

「何がおるっちゅうねん。ナスの亡霊かいな」

「ナスは何かのメッセージかも……」

「アホ、何の変哲もないナスなんやで。おいしくいただけるナスちゃんや。食費も浮いて結構やないか」

「そうかもしれませんけど……」

彼は結局、卒業するまでその部屋に住み続けた。ナスは時折、思い出したかのように落ちていたという。

 

 

『夜更かし』

これは私が体験した話である。

私が小学生だった頃、思いっきり夜更かしをしたことがある。生活リズムが狂いに狂いまくっていたので、おそらく夏休みの間だったと思う。

当時私の部屋はリビングの隣にあり、その間の扉は就寝時以外は開け放っておくように言われていた。

その時私は部屋の開け放った扉を右手に見る位置で、壁にもたれながら、当時中学生だった兄と漫画を読んでいた。小学生の私にとって、日付が変わるほどの夜更かしというのは一大イベントであり、眠い目を擦りながら、半ば義務的に起きていた。

 

日付が変わってしばらくしてからだったと思うので、午前1時か2時頃だと思う。突然、私の部屋の横にある階段が軋む音がした。この階段は普段から軋みがちで、誰かが通ると必ず軋む。軋みは上から下に移動、つまり階段を降りてきていた。

私はまた漫画に目を落とそうとして、違和感を覚えた。父と母の寝室は1階にあり、どちらとも既に就寝している。部屋が2階にあるのは兄だけだが、その兄は私の目の前で漫画を読んでいる。

私は混乱した。今階段を降りてきたのは一体誰なのか?

みしっ。

一際大きい軋みが聞こえた。これは階段を下りきり、玄関とトイレがある短い廊下に足を掛けた時に鳴る音である。その廊下の突き当たりはリビングに入る扉で、その扉のすぐ横にあるのが私の部屋の扉だった。

私は漫画に目を落としながら、耳だけは物音に集中していた。こうして聞き耳を立てていれば、物音の主がこれ以上動き出さない、あまつさえこちらに向かってくることなどないような気がしたからだ。

もう漫画の内容など全く頭に入らない。そうこうしているうちに、私の願いも虚しく、物音は廊下を進み始めた。

みしっ。ぎしっ。ぎっ。……したっ。

私には"それ"の動きが手に取るように分かった。1階の廊下は中程まで進むと軋まなくなるからだ。今、真っ暗な廊下の半ばに立っている"それ"を想像してしまい、私は総毛立った。

したっ。したっ。したっ。……きぃ。

"それ"がリビングに入る扉を開けたのが嫌でも分かった。幽かな動きのはずなのに、私には扉が作り出した気流すら感じられるようだった。私は既に、冷や汗をかき始めていたと思う。

ぺた。

私は確かに、リビングのフローリングを素足がはたく音を聞いた。

私の部屋の扉は開けっぱなしである。ぽっかりと空いた口の向こうは、真っ暗なリビング。今や"それ"が足を踏み入れている空間である。

ぺた。ぺた。

私は扉の枠から真っ黒い"それ"がぬっ……と顔を突き出してくるのではないかと思って、もう気が気でなかった。顔は真っ直ぐ漫画に向けたまま、横目で暗闇を睨んでいる。すると突然、

ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたっ!

と足音が早くなり、私は卒倒しかけた。横目で必死に目をこらすが、リビングの暗闇の中には何も見えない。なのに、足音はずっと続いている。

そのうち私は嫌なことに気がついた。足音が、全く移動していないのである。私の部屋のすぐ横で、苛立つかのような足音が響いている。私は恐怖のあまり、ついに顔を漫画から上げて兄を見た。今頼りになるのは兄しかいない。

しかし兄は漫画から顔を上げようともせず、ただ一言、「いるね」とだけ呟いた。

私は今目の前で起こっていることが何ひとつ信じられず、再び漫画に目を落としてただ儀礼的に漫画を視線でなで続けた。

どれほどそうしていただろうか。気がつくとリビングの足音は小さくまばらになっており、やがて消えた。

私がその後、扉から一番遠い角で布団にくるまり、うんと小さくなって寝たことは言うまでもない。