雑記日記

概ね無職。

オペレーション・クラークフォビア

 服を買いに行ったのである。実に8ヶ月ぶりのことであった。

 というのも、私ほど無職が板についていると、気付かぬうちに服がボロボロになるのである。そのプロセスについて、もしかすると無職ではないかもしれない諸兄らのため、分かりやすく解説してみよう。

 まず、無職は無職であるので、背広やワイシャツの類いは生活の中にほぼ出番がない。実際のところ、学生時代の求職活動以外のシーンでこれらを着用したのは、祖父の葬儀の際だけだった。学生という身分を返上してからいくつか短期・長期を問わず職にありついたが、そのいずれでも背広を着用したことはない。大抵は作業着か、適当なパーカーなどを着用していた。つまりはそういう職業である。

 このように、無職が普段着用するのは、オンとオフを問わず所謂カジュアルスタイルであることが殆どである。私の場合はジーンズとTシャツ、その上に適当なパーカーやミリタリーブルゾンを羽織っていることが多い。

 この構成は学生時代から何ひとつ変わっていないわけだが、私は少々特殊な学生生活を送っていたので、足を保護するための長ズボン、作業性を高めるためのスニーカー、学校に置いてある作業着と着替えやすいパーカー、気温によって調整が出来るよう半袖のシャツ、というコンポーネントそのものが事実上学校によって指定されていた。それに則って生活をしていたので、これ以外の構成をしなくなってしまった側面は大きい。

 話を元に戻そう。無職はその経済的事情ゆえ、就寝専用の寝間着を持っていないことが大半だと思われる。私もご多分に漏れず、「ちょっとこれを外で着るのは憚られるな」と思う程度にはくたびれたTシャツを寝間着に転用することで、これまで凌いできたのである。加えて、無職は如何せん無職であるので、実際のところ1日の大半を寝間着で過ごしている。

 ところがである。諸兄らも心当たりがあるだろうが、人は寝ている間に意外なほど動くらしく、寝間着は殊の外傷みが早いのだ。

 外で着られるTシャツの数にも限りがある。無尽蔵に寝間着におろしていく訳にはいかない。しかし寝間着は次々と死んでいく。襟ぐりが伸びきる。縫い目がほつれる。どこからか長い糸が出る。脇腹や裾に穴が開く。袖が脱落する。それでもそれを着るより他にないから着るのである。そして一度着たからには洗濯をせねばならないので、穴やほつれは更に大きくなっていくのである。

 こうなってくると、もうみすぼらしいなどというレベルではない。格好だけで言えば、嵩山の洞窟で9年間壁に向かって座禅を組んでいた達磨大師と同じか、それ以上すごいことになっているであろう。達磨大師も座禅を終えた後、追われるように洛陽近辺の服屋に行ったはずである。

 私もこの度ちょっとした臨時収入を得たので、丁度いい機会だと思って最初から寝間着用にTシャツを数枚買うことにした。本当はギター関連機材か本などに費やしたかったのだが、外でギリギリ着られる服を数枚でも保っておくことは、文明人に強いられる必須の投資である。何しろ、道を歩けば犬猫の類いですらパリッと糊のきいたおべべを着ておる時代なのだ。人間様がズタ袋同然の粗末な布を身に纏って歩いていれば、問答無用で通報されるのがオチである。勿論私が文明人であるかどうかについては議論の余地があろうが、服さえ着ていれば、とりあえず社会という共同体の範囲にギリギリ収まるものとして扱われるのである。

 私は残念ながらブランドというものには興味がない上に、予算も限られている。よっていつもの薄利多売系服屋に向かった。適当なTシャツとジャージズボンをそれぞれ2、3枚ずつ見繕ってレジに向かうと、会計をする店員が「こちらのシャツ、5枚お買い上げになれば5千円になりますが」と言ったのである。

 コミュニケーション能力に難のある読者諸兄らには勿論理解して貰えると思うが、服屋というのはどのような形態であれアウェイである。我々は店員の目を盗んで入店し、その気配に細心の注意を配りながら服を見繕い、真っ直ぐにレジに向かって逃げるように退店するのだ。勿論、その過程で店員に話しかけられてしまえばゲームオーバー、どんなに気に入らなかろうと何かひとつは買わなければ生きて店を出ることは叶わない。服の選定にも細心の注意を要する。なぜなら、試着などしようもんなら責任を取ってその服を買わねばならないからだ。よって、サイズ間違いなど絶対に許されない。達磨大師もおそらく洛陽の服屋ではそういう行いをしたはずだ。何と言っても、壁に向かって9年も座禅をするような人物なのだから。

 そのような神経をすり減らすミッションをこなし、もう少しで退店出来る……と緊張の糸が緩んでいた私に、この発言は全くの不意打ち、死角から飛んでくる鋭い右フックであった。あの時の私は、それはそれは哀れなほど取り乱していたと思う。

 アッソウナンデスカ、ヘェ~ジャアアレダ、アノ、エート、モウチョットミテキテモイイデスカ?とヘリウムガスを飲んだバルタン星人のような声で言うと、私は回れ右してTシャツ売り場へともつれる足で駆け込み、目についたシャツを3枚ひっつかんでレジに戻ったのである。

 会計を終え、全身の骨がゴムになったかのような足取りで店を後にし、速度超過気味に家に帰ってきてから、私はまた大変なことに気付いた。購入したTシャツの中に、殆ど白と言ってもいい色味のものが混じっていたのである。追加したシャツのうちの1枚であろう。

 私はこういう自意識の持ち主である以上、彩度や明度の高い服を好まない。そういう服を着ていると、街中で必要以上に目立っている気がしてしまうのだ。勿論そんなことはないし、己の無価値は己が一番理解しているが、着ているだけでそう思ってしまうのだから、それならばいっそ着ないほうがずっと精神の安定によいことは理解していただけると思う。

 今回購入したのは寝間着としてのTシャツであり、基本的にこれを着たまま出歩くことはないわけだが、着ることになる人間は同じ私なので、着用によるスリップダメージは変わらず通ってしまう。さながらのろいのそうびである。なんということだ。これは手痛い失敗である。失敗したからといって、まさか返品など出来るわけがない。そんなことが出来るなら、前述のようにステルスゲームのような買い物の仕方はしないのだ。

 結局その後数回そのTシャツを着たが、ふとした拍子に裾や袖が目に入り、その度に「白だ!」と衝撃を受けるので本当に精神衛生によくない。私ともあろう者が、寝ても覚めても白いTシャツを着ている。とてもつらい。

 それに加えて、もっとつらい事実がある。実はこのTシャツ、5枚5千円のセールの対象外だったのだ。それに気付かないほど動転していた私も私だが、紛らわしい陳列をしていた店も店だ。5枚セットが成立しなかったため、私は満額を支払い4枚のTシャツと1枚の白いTシャツを買ったことになるが、それを指摘しなかった店員は一体何なのだ。人の心がないのか。それとも、服屋に来る人間は皆いついかなる時でも冷静で、加減乗除の四則演算は完璧だとでも言いたいのか。残念ながら私は九九もおぼつかぬほど数に見放された人間であるぞ。

 やはり服屋とは一瞬たりとも気の抜けない、純然たる敵地である。次はぴっちりとしたステルススーツに身を包み、ダンボールに入って入店することにしよう。