雑記日記

概ね無職。

2021/09/22 『犬鳴村』映画評

『犬鳴村』(2020年/東映

得点…45/100

映画『犬鳴村』特集 | 東映ビデオオフィシャルサイト

かねてより「もしこれを怖いと思って撮ったんだったら、監督の清水崇は引退したほうがいい」とまで言われているのを目にして気になっていた作品。炎上商法まがいの捨て鉢なプロモーションが(勿論悪い意味で)気懸かりだったものの、機会がなく今日まで観てこなかった。
果たしてその実態とは……うん、これはひでえや……。「怖い/怖くない」の次元ではなく、もう「これを面白いと思って撮ったんだったら、清水崇は引退したほうがいい」、そう断言して差し支えない出来だ。『クロユリ団地』が傑作ホラーに思える、と言えば分かりやすいだろうか。

 

映画はモキュメンタリータッチの映像から始まる。さんざっぱら『ほんとにあった! 呪いのビデオ』シリーズと同レベルの安っぽい見切れ恐怖演出を見せつけられた後、劇映画フェーズに映る。ここの切り替えは『ジャージー・デビル・プロジェクト』のラストシーンを思い出してちょっと感慨にふけったが、別に意識されたものではないのだろう。たぶん。なんかそんな気がする。

しかしながら、この映画が誇る圧倒的な脱力感はすぐに襲ってくることになる。このモキュメンタリーを撮影している二人を襲撃するのは、ゾンビじみて極めて実体感のある幽霊なのだ。

既に何度も書いていることだが、ホラー映画における恐怖の演出というのは「どう見せるか」ではなく「どう見せないか」が重要なのである。映画だからと下手なサービス精神を見せてバンバン幽霊や化け物を登場させてしまったのでは、観客の想像は作品に入り込む余地がなくなり、世界観や登場人物達に没入することが出来ず、結果として作品は見世物小屋、よくてフリークス映画のレベルになってしまう。そんなことくらい、『呪怨』を監督した人なら十分に理解していると思うのだが……。

そもそも、この映画にゾンビパニック的恐怖を期待した観客がいただろうか?たぶんいなかっただろう。この時点で、既に演出と脚本は大失態を演じている。観客の期待を文字通り裏切ったという点で。
真に恐ろしいのは、既に観客達に「アッ、この映画はハズレや」と十分過ぎるくらい思い知らせているのに、ここまでまだたったの7分という事実である。ここにきてやっとタイトルが出るのだが、私はここでパッケージに書かれている本作の収録時間を確認してしまった。まだ100分以上もあった。これが地獄か。

 

その後は所謂憑き物筋とか、呪われた血筋(つまり、犬鳴村の住人の血脈)といったものを主題に話が進む。
このあたりは(というかこの映画の大半は)恐怖演出という面で観ても、かなり低調というか、あまり褒められたものではない仕上がりである。

なんと言っても幽霊達に実体感がありすぎるのだ。死人メイクをバッチリ決め、後付けのソフトフォーカスで雑にボカされた幽霊など、突然現れようが何人現れようが、別に怖くもなんともない。一部には『呪怨』シリーズのセルフパロディのようなシーンもあり、私は悔し泣きを禁じ得なかった。
また主人公のひとりである悠真のヤンコネ(ヤンキーコネクション)の取り巻きが何人死んだところで、物語にサスペンスのひとかけらも提供されないのには頭を抱えてしまった。

演出そのものは悪くないのだが、その死があまりにも突飛なのだ。彼らはあくまでも悠真の取り巻きであって、犬鳴村を訪れたわけでも、犬鳴トンネルをくぐったわけでもないのだが、電話ボックスの中でつづら折りになって溺れ死んでしまう。なんて理不尽な。

ちなみにその電話ボックスは、ゾンビじみた幽霊達が取り囲んでいるために開かないという設定。電話ボックスの周りを(例によってソフトフォーカスの)ゾンビがうぞうぞする画は、正直失笑ものであった。

 

半分ちょっとを鑑賞し終えた時点で、私はやっとこの映画に覚える既視感の正体に気がついた。
『サイレン』である。同名の傑作ホラーゲームの映画化作品で(設定としては続編である『SIREN2』の舞台設定に似ている)、これもまあひどい出来だった。
因習の村、妙な童歌、ゾンビじみた住民達……と、両者の共通点はかなり多い。どうして禁足地をテーマにホラーを撮ると、同じような仕上がりになってしまうのだろう。

 

細かいディテールの詰めも甘い。
「犬鳴村の唯一の記録」という触れ込みのどう見ても大正期~昭和初期頃を写したものに見えるフィルムに色と音がついていたり、そのフィルムに明らかに露見するとヤバそうな犯罪行為が記録されていたりするのは序の口である。
元々犬鳴村の住人ではなかった青年の霊が、なぜ案内役を務めて主人公を犬鳴村へ導くのかもよく分からない。外部の人間だから、自分の子供を守りたかったから、と言うのであれば、やっぱり犬鳴村の住人達は最初から呪われていたことになってしまわないか。実際、住人の皆さんはゾンビ化して百鬼夜行してるわけだし。このあたりも『サイレン』っぽいな。

 

話の終盤で主人公達にも犬鳴村の生き残りの血が流れていることが分かるわけだが、それを何か不穏なものとして描くのはちょっと違うのではないか。皆殺しの憂き目に遭った犬鳴村の血を途絶えさせない為に、青年の霊は奮闘してタイムパラドックスを発生させ、村の血脈を繋いだわけだが(このあたりも『SIREN』《ゲーム版》によく似ている)、その子孫達がみんな宛先のない悪意に燃え、加害者の血筋だけではなく他の者達をも破滅させることを予見させていたのでは、ストーリーにねじれが発生している。これではまるで『悪い種子』ではないか。


ここまで散々貶しておいてなんだが、恐怖演出以外の演出や画面構成には、『呪怨』などで観られたものと同じ美意識を感じる。それだけに、両者を監督したのが本当に同じ人物なのだと分かってしまうのでとても悲しい。
……なんだかどのシーンを観ても、『ほんとにあった!以下略』のコンテひとつひとつをつぎはぎにして体裁を整えたかのような、おざなりな「とりあえずやってみました」感に支配されていて、「とりあえず」以上の体験が得られないのだよなあ、これ。

よってこの映画は減点法で採点すると20点くらいになってしまうのだが、加点法で採点すると……やっぱり45点どまりになってしまうのであった。普段ならどう結ぶかを考えながらこの文章を書くのだが、ものがものだけにどう結べばいいかも分からない。


私は悲しい。清水崇という巨星の凋落が。こんなものしか撮れないJホラーの凋落が。そして何よりも、この映画を観てしまったという現実が、私は悲しい。