雑記日記

概ね無職。

『ポストマン』と冷淡さ

『ポストマン』という映画がある。

ポストマン - 作品 - Yahoo!映画

映画という娯楽にちゃんと親しんでいる人ならば、「ああ、あれね」と鼻で笑いつつこれを読んでいるかも知れない。何を隠そう、本作は第18回ゴールデンラズベリー賞で最低作品賞を含めた5冠に輝いているからだ。

私は映画という娯楽を、鼻をほじり、尻を掻きながら摂取しているので、寡聞にしてこの映画がラジー賞を受賞していることを知らなかった。今このジャケットを探すために検索して知った次第である。思い返せば決して褒められた出来ではなかったような気がするが、そこまで酷くないとは思う。

 

あらすじはこうだ。

2013年、戦争と疫病によって文明は崩壊し、人々はあたかも開拓時代のように小さな共同体を保ちながらなんとか暮らしていた。主人公は旅芸人、と言ってもシェイクスピアを相棒のラバと演じて日銭を稼ぐ身の上。

ある日上演を終えた彼は、一帯に君臨する武装集団を率いた独裁者の新兵狩りに巻き込まれてしまう。この独裁者というのがご多分に漏れず人種差別主義者であり、白人の男ばかりを入隊させているために、周囲の村落から適齢の白人の男がいなくなってしまった。流れ者である主人公は運悪く独裁者の目に留まり、無理矢理入隊させられてしまう。

なんやかやあって武装集団から脱走した主人公は、風雨を凌がんとして転がっていた郵便公社のバンに潜り込み、その運転手の死体が着ていた郵便配達人の制服とカバンもついでに拝借する。

付近の村にたどり着いた主人公は、郵便配達人の制服を着ているのをいいことに、「郵便制度は復活した、配達人には食事と宿を与えるのが国民の義務だ」とハッタリをかます。勿論村人達は信じないが、土壇場でカバンの中の手紙の宛名を読み上げると、その主が偶然名乗り出たため、主人公は復活した郵便配達人として歓待を受けることになるのだった……。

 

この映画の最低限まともな感想文には大体こう書かれている――「主人公が嫌なヤツ過ぎる」と。

主人公は常に自己の保身だけを考え、良い思いをするだけして恩を返さない、そういう男として描かれている(ように見える)。それが気に食わないのか、世の大半の感想文(と、世間的には「最低映画」と目されている本作に向けられた、ほんの少しばかりの批評)には判で押したように同じことが書かれているのだ。

しかし、考えてもみて欲しい。この映画は文明崩壊後の世界を描いているのであり、アポカリプスの向こう側という意味では、『マッドマックス』や『トゥモロー・ワールド』、あとは例の、脚本家が居酒屋で脚本書いたことで有名な(嘘)へなちょこサスペンス『クワイエット・プレイス』と同じ箱に入る作品なのである。まあ個人的には『クワイエット(以下略)』には箱の中とは言わず、脇で洗濯板の上にでも正座していてもらいたいのだが。

話が逸れたが、本作は「ここは文明崩壊後の殺伐とした世界なんだ」と説明することにかなり力を入れている、というより必死ですらある。それはこんにちでは些か冗長に思える前半部の脚本からも覗える。文明が崩壊した世界で、己の身ひとつで生きていかねばならないとなれば、人は冷酷にもなり、恩知らずにもなり、厚顔無恥にもなれるのである。それは主人公がそのようなキャラクター設定なのに対し、共同体で生きる人々が大義に忠実であったり、権威に隷従していたり、国家の復興という理想に対してあまりにも無邪気に描かれていることで更に強調されている。

つまり、どうして主人公はひねくれた姿勢なのか、という理由は映画の前半までで全て説明されているのである。

 

それにも関わらず「この主人公は冷淡だ」と断じてしまう人がどういう人なのか、私にはよく分からない。

嘘をつかず、誠実に生きること。自己の利益より他者の利益を尊重すること。負け戦だと分かっていても果敢に挑むこと。ひとつひとつを抜き出せば、これらは美徳だろう。

しかし実際には、人は嘘をつく。時にはそろばん尽くで取捨選択をする。勝ち目がないと分かれば、尻尾を巻いて逃げる。なぜならそれは、自分を生かさねばならないからだ。

尤も、現代社会において、選択がそのまま生死に直結するような状況は稀である。だがそれゆえに我々は、「生存」という生命の基本原理を「美徳」で上塗りしてしまいがちなのではないか。「美徳」で上塗りして、生命が本質的に希求するものを隠し、時には恫喝まがいの行いまでして、「美徳」とそれによって維持される「社会」とか「世間」といったものを護持しているのではないか。

酷薄な行為を許せない気持ちは、それ自体は善い行いだと見なせるだろう。しかし、それを言動によって他者に向けて放ったとき、それは果たして善い行いだと言えるのだろうか。

毎日のように何かが"炎上"している世の中になって久しい。「暴走する正義」や「○○警察」という言葉を目にすることも増えた。しかしながら、本当に暴走しているのは正義や政治ではなく、正義を求める心、許せないと思う我々の心なのではないだろうか。

冷淡でいることが許されない世界は、果たしてこの映画で描かれた「文明崩壊後の世界」より良いものなのだろうか?と、私は"「ダンス・ウィズ・ウルブス」を超える感動"という宣伝惹句にやや呆れながら考えたのだった。