雑記日記

概ね無職。

崩壊

私は缶詰を眺めていたのである。

場所は近所のスーパーマーケット。時刻は夜8時過ぎ。私の手にはオイスターソースが1瓶と、キュウリが3本握られていた。明日の夕食の材料である。

家から少し離れた場所にある資源ゴミの堆積場に古新聞やダンボールなどを出しに行った帰りに、昼間買い忘れた食材を買うため、私はその店に入ったのである。

まずオイスターソースを手に取り、キュウリを3本、備え付けの薄っぺらなポリ袋に詰めて持った。夜8時も過ぎた店は客の数もまばらで、蛍光灯の明かりがどこかうらぶれたように白々しく、鮮魚コーナーや精肉コーナーには空白が目立っていた。

それらを横目に眺めながら歩き、菓子売り場で先日終売となった「スーパーソーダガム」がまだ売られているのを見て、ぶらぶらと足を缶詰・瓶詰の棚へと向けたのである。

この店というのは立地が近所であるというだけで、別段安いわけでもうまいわけでもないので、普段はあまり立ち寄らない。こうして買い忘れに気付いたときや、どうしても他の店に行く余裕がないときにだけやってくる程度の店である。そんな程度の利用であるから、どこに何が並んでいるとか、どういった程度の品揃えだとかはよく分かっていない。よくよく棚を眺めると、聞いたこともないようなメーカーの見たこともないような商品がいくつも並んでいたりする。私はそういうものを見るのが割と好きな部類であるので、しげしげと棚を眺めながら、問題の缶詰・瓶詰の棚がある条までやってきたのだ。

このように、今思い出せば、詳しい事の次第や状況を説明できる。しかし。

私は缶詰を眺めていたのである。聞いたこともないメーカーが出している、どうやらかなり辛い味付けらしい鰯の缶詰を見つめた、その瞬間だった。

長いトンネルを抜けたときのように、視界の輝度が急に上がったように思われた。反射的に首を動かすと、ほんの一瞬ではあったものの、あたかも酩酊したときのように世界にモーションブラーがかかった。

そうして私は、ここがどこで、私は一体何をしていて、どうしてここにいるのかを、全て忘れたのである。

いや、忘れたというのは正確ではない。思い出せなくなったと言った方が正しい。より正確に記すならば、それらの理由が書かれたフリップを、曇りガラスの向こうに置かれてしまったような感覚に陥ったのだ。

世界から音が消えた。レジスターの音、客の話し声、冷蔵庫の唸り声、あれほど調子よく鳴っていた有線放送も聞こえなかった。

私は何故か、咄嗟に「帰らなきゃ」と強く感じた。しかし、一体どこへ帰るというのか。家へか。そもそもここはどこで、どこへ行けば家へ帰れるというのか。あるいは元の世界へか。元の世界、元の世界とは、一体何か――。

気がつけば私は、缶詰・瓶詰の棚がある条を通り抜けていた。世界の輝度は元の仄暗さに戻っていた。有線放送の気の抜けた電子音が、頭上から降ってきていた。私の手にはオイスターソースが1瓶と、キュウリが3本握られていた。そして、そこは近所のスーパーマーケットだった。

私は缶詰を眺めていたのである。缶詰を眺めながら、その条を歩いていたのである。オイスターソースとキュウリを手に持って。

今思い返せば、それはたった数秒のことだったように思われる。人間は危険を感じたとき、視覚情報を処理することよりも危機を回避することに集中すると聞いたことがある。そのために視覚情報の処理が遅れ、世界がスローモーションで見えるのだという。

もしこの体験がそうだったとして、私は一体何に危険を感じたのだろう。全ての記憶が曇りガラスの向こうへと置かれ、アクセスを遮断されたことに危機を覚えたのだろうか。それは危機というよりも、どちらかといえば恐怖に近いものであったと思う。それは、私が私でなくなることの恐怖、人格が崩壊することへの恐怖であった。

私は足早に会計を済ませ、店を後にした。ガラス張りの自動ドアには私の顔が映っていた。心なしか青ざめた顔が。

崩壊とは、得てして突然起こるものなのかも知れない。